出だしの文章     

 〈質問〉
 最近、私は友人から、「小説にしろ、随筆にしろ、出だしは大事だから、よく考えてから書き出すように」と、忠告を受けました。
 わたしは、「作品は出だしだけで決まるわけではない」と、反論しましたが、どうも気になります。
 どうして、そんなに出だしに気をつけなければならないのか、お教えください。どうも、よく分からないのです。
       (仙台市のS・Aさん)

 文体を左右する出だし
 たしかにS・Aさんのお説どおり、作品は出だしだけで、その作品の価値が決まるわけではありません。
 しかし、過去の名作は一様に出だしが優れています。これは作者の姿勢と無関係ではありません。つまり、出だしの数行が、その作品の文体と性格を決定するからです。出だしからうまくいきますと 、そのリズムに乗って後が続きます。作者が乗れるか否かの重要なポイントというわけです。
 されゆえに、作家は出だしにくふうをこらし、頭を悩ますのです。しかも、読者を引きつけなくてはなりませんから、魅力的でなくては意味がありません。
 もし、これらの条件を含んでいない出だしの文章でしたら、わがままな読者は、もうそれだけで本を閉じてしまうに違いありません。なぜなら、読む読まないの権利は作家にあるのではなく、あくまでも読者の側にあるからです。
 そんな分かりきったことをくだくだと述べるよりも、名作と呼ばれている作品の出だしを幾つか紹介した方が早いですね。
 親しみやすさからいくと、やはり文豪・夏目漱石の作品でしょう。

 吾輩は猫である。名前はまだ無い。
 どこで生まれたか、頓(とん)と見当がつかぬ。何でも薄暗に、じめじめした所で、 ニヤーニヤー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで初めて人間というもの を見た。然もあとで聞くと、それは書生という人間中で一番獰悪(どうあく)な種族 であったそうだ。

 親譲りの無鉄砲(むてっぽう)で子供(ども)の時から損ばかりして居る。小学校に 居る時分学校の二階から飛び降りて一週間程(ほど)腰を抜かしたことがある。なぜ そんな無闇(むやみ)をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新 築の二階から首を出して居たら、同級生の一人が冗談に、いくらいばっても、そこか ら飛び降りる事は出来まい。弱虫やーいと囃(はや)したからである。小使に負ぶさ って帰ってきた時、おやじが大きな目をして二階位から飛び降りて腰を抜かす奴(や つ)があるかと云ったから、此(この)次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。

 山路を登りながらこう考えた。
 智に働けば、角(かど)が立つ。情(じょう)に棹(さお)させば流される。意地を 通せば窮屈(きゅうくつ)だ。兎角(とかく)に人の世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、安い所へ引っ越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟 った時、詩が生まれて、画(え)が出来る。

 ご存知『吾輩は猫である』と『坊っちゃん』『草枕』の出だしを引用してみました。読者の心を作品に引き込む巧みさを堪能されたことでしょう。
 三者三様、作者の漱石はスタイルとリズムを変えています。これは作品の内容、テーマを考えたうえでのくふうであり、その作品のトーンともなっています。つまり、どの作品も同じ文体ではなく、作品によりよくマッチした文体を、という考えた末の出だしなのです。
 『吾輩は猫である』の出だしは、素朴な、てらいのない出だしですが、これほど端的にストレートに書かれていると、一種の小気味よさがあります。
 このトーンが全体を包んでいて、人間社会と人物像を遠慮会釈なく斬っていくわけです。つまり、作者の漱石は「猫」という姿をかりて、初めて第三者的な立場に立てたわけです。もちろん、自分の姿も猫の目で痛烈に批判しています。作者のみならず、作者の身辺の人々までです。
 そういう作品ですので、語り口も鋭いものでなくてはいけません。それには歯に衣を着せない文体が必要だったのです。ですから、名前もなく、由緒ある血統の範疇(はんちゅう)外に置かれた、どちらかというと無頼の徒に近い猫という設定がなされています。いわばアウトサイダー的猫なわけです。
 作者は思案の末、「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」と書き出しています。この出だしの一行が、この作品の決め手になったわけです。
 これは『坊っちゃん』の出だしにも共通しています。「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりして居る。」という書き出しで、作者は、「坊っちゃん」たる主人公の性格を鮮烈に打ち出しました。具体的なことは、その出だしに続く二階から飛び下りる段で描かれております。これは負けん気の強い正義感の持ち主というイメージを、読者に早く与えておきたいという作者の配慮からです。
 『草枕』は、どちらかというとエッセイ的な作品で、漱石の人生観、運命感、世界観を前面に押し出しています。そのためには、自分の考えを明らかにしなければなりません。そこで、漱石は「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」と、心中を吐露するわけです。
 いずれも、作者の姿勢がはっきりしているのが特徴です。
 この出だしの文章が、違ったトーンであり、リズムであったら、おそらく違った作品になっていたはずです。出だしに作家が神経質になるのは、そのような原因があるからです。

 現代文の出だし
 次に私の好きな川端康成の『伊豆の踊子』と『雪国』の出だしを味わってください。

 道がつづら折になって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く 染めながら、すさまじい早さで麓から私を追ってきた。
  私は二十歳、高等学校の制帽をかぶり、紺飛白(こんがすり)の着物に袴をはき、 学生かばんを肩にかけていた。一人伊豆の旅に出てから四日目のことだった。修善寺 温泉に一夜泊り、湯ヶ島温泉に二夜泊り、そして朴歯(ほうば)の高下駄で天城を登 って来たのだった。重なり合った山々や原生林や深い渓谷の秋に見惚れながらも、私 は一つの期待に胸をときめかして道を急いでいるのだった。そのうちに大粒の雨が私 を打ち始めた。折れ曲がった急な坂道を駆け登った。

 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が 止まった。
  向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこ んだ。

 さすがに文章を大事にした川端康成の作品ですね。目に見えるように的確に情景が描写されています。特に出だしの数行はイメージが豊かで、新鮮です。しかも大上段に構えた書き方ではなく、むしろ抑えた地味な文章です。地に足のついた文章とは、こういう優れた描写力のある文章をいうのです。あやかりたいものです。

 漱石の文章―たまたま例をあげた三作―は、どちらかというと語り口のおもしろさと、読者を早く作中に引き込もうとする意図が見えます。
 それに比べて、川端康成の二作はさり気なく出だしています。それも、おもしろさではなく情景描写による文章からです。ここに大きな差があります。
 もちろん、こうでなくてはいけない、という原則はないのですから、どういう出だしであってもいいわけです。作者は、作品のテーマにより、あるいは素材により、出だしの数行に命をかけるということさえ、お分かりいただければ結構です。
 これからものを書こうとする人は、その作品のテーマを考え、どんな文体がいちばん合うか、あるいはテーマを引き立てるかを考えて原稿用紙に向かってください。少なくとも、安易な姿勢で書き出したりしないようにしてください。なぜなら、出だしの数行の文体が、その作品のトーンになり、全体を左右するからです。
 もう一度いいますと、文体こそは、作家の命なのです。そのために大勢の先達作家は悪戦苦闘を重ねてきたのです。
 これで、だいたいは「出だしの文章」の大事さがお分かりいただけたことでしょう。

 結論――
 文章を大事にしない人は、出だしを気にしないでいいでしょうが、いやしくもよい文章、よい作品を書こうと志している人なら、手抜きの文章は書かないように自戒してください。何しろ、その作品の文体が決まるのですから。
 私の好みでいいますと、出だしは何行にもわたらず短いセンテンスであってほしい、と付け加えておきます。しかも、さりげなく、生き生きとした文章で読み手の心を捉えるように心を配ってください。