〈散文詩〉

    蝉 の 声
           高橋 勝


 朝早く目覚め、東側の窓を開けると、蝉時雨がいつせいに部屋のなかに吹き込んできた。そんなに蝉は鳴き立ててゐたのかとあらためて気づかされる、もふ立秋も過ぎたといふのに一向に落ち着きを取り戻さないこの猛暑のなか。
 蝉の声に耳を傾けてゐると、ミィーンッミィーンッミィーンッミィーンッミー、ジー、とこのわづかな涼しい時間帯は一日のうち特別枠なのかいつものとは違つてつつましやかに聞こへてくる。なほも耳をそばだててゐると、いつ果てるともしらない単調の音色には明るく楽しさうな響きは隠つてゐない。むしろ、自身の一生を恨んでゐるよふな、苦しげに何かを責めあげてゐるよふな、まるで鬼気迫る思いを全身から絞り出してゐるみたいだ。
 芭蕉の『奥の細道』には、蝉の声を詠つた一句が入つてゐる。「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」といふ、立石寺に立ち寄つた際に創つた例の句。この句には、視覚や聴覚を駆使して描き取つたその場の空間的情景が後の読者の心中に鮮やかに思い起こされずにはおかない言葉の力といつたものが、確かに漲つてゐる。しかし、この窓辺でかうやつて鳴き声を耳に受けとめ、散歩時に時として出会ふ路端にころがる亡骸に思いをゐたすと、蝉の生きざまがさらに四次元時空の映像となつて浮かんできてしまふ。 

 蝉は、幼虫時、地中で木の根の汁を吸つて育ち、数年の後、地上にはい上がつて成虫になり、一夏のわづかな期間を戀に身を焦がす思いを一念に歌いきつて自らの命を産まれた土に帰してしまふといふ。素朴な疑問だけれど、何がさふさせてゐるのか。他の魚類や動物や植物がさうであるよふに、蝉も身体の中に組み込まれた親からのDNAの指示によつて、無意識的にあるいは本能的に、ただそれぞれの環境に適合することで進化し、その時々を自然のままに生きてゐるだけと考へるのが一般的な理解といふものなのだろふ。しかし、あの喧しい鳴き声も聴きかたによつては、人間のありように当てはめて捉へることができるのではないかとかんがえられる。
 きみには、蝉の在りかたが人間の生き方を投影した姿に感じられてしかたがないと思へてならない。つまり、蝉は今を盛りの命の息吹も、やがては閉じることになる宿命を初めから知つていて、この刹那を、与へられた時空にしがみついて懸命に生き抜いているやうに見へるのだ。さふ考へてみれば、実はあの鳴き声は絶望や恨みの隠つた節回しなのではなく、今が限りあるものであるからこそ、必死に生きやふと腹の底から思いのたけを表出し、切ない夢の歌をうたつてゐるのではないかと思へてくる。

 まだ明けやらぬいつとき、開けたガラス戸の端に両手をかざし、蒸し暑い窓辺に広がる梅林やその先に林立する欅の大木に眼を遣つて蝉の声を聴いていると、自分の来し方が一瞬見へてしまつたよふな気がしてならない。せつかく稼いだ僅かばかりのお金で何か身に迫つてやまない飢えを満たさうとするかのごとく眼の前の物質に自らを委ね続けても、やつとありついた職業にさへ胸のうちに抱き続けてゐたほかの仕事への想いが断ちがたく誘われるまま秘密裏に挑んでは倒されても、ひととひととのであいがじゆつぽんのゆびにもにじゆつぽんのゆびにもかぞへきれないほどあつたのにじぶんかつてだとかじやうけんにきにくはないところがあるのでなどとかたくなにこばんだりみすてたりしてしまつても、次が、明日が、未来が、もつとほかにじぶんにあつたよいひとが、待つてゐてくれるに違いない、と自らの人生の存続につゆほども疑ふ意識さへ持てなかつた。そして、その結果として、かうして今に続いている、自身の、あるがままの姿……。でも…、ときみは重い頭をおもむろにあげる、ほんたうにこれまでの人生は土から浮き上がつてゐたつていふのだらふか。その視線の先には、いつしかしののめの空に太陽が、薄暗い雲に包まれてまあるい顔を出し始めてゐる。  (了)