〈短編小説〉
   アブラゼミの鳴き声   
              高橋 勝 
                                        
 人生を振り返る、なんて現役で生き続けている人間が口に出すべき言葉ではないかもしれない。しかし、北海道のある湖には、日本で越冬するためにシベリア方面からやってきて、南下前に一休みするガンやハクチョウが続々と集まるといわれるように、そのときどきで一息入れては心身を休ませ、歩んできた道のりを見つめながら新たな態勢づくりをして飛び続けることも意味あることであろう。そこで雅史も、今そのような態勢をとってみようと考えていた。
 というのも、先日部屋のなかを隈なく整理していたら、かつて現役時代に書き散らした短編小説集のファイルを見つけ、そのなかに次のような断片があり、当時を思い起こしながら感慨深く読んだからだった。

 工業高校で新採の5年間を勤めたあと、雅史は地域の中堅校に異動し、新任の2年目に新入生のクラス担任を受け持った。翌年度は同じクラスを持ちあがりで担当し、5月の連休明けに受け持ちの生徒がある事件を起こした。
 朝会が始まる前の職員がほぼ出揃ったころ、梶尾という男子生徒が顔を真っ青にして数学担当の教諭の傍までやって来るなり、いきなり土下座し、すいませんでした、許してください、許してください、と頭を床にこすりつけている。周りの教員が注目しているなか、雅史は生徒に近づき、どうしたんだ、と胸を震わせた。雅史の言葉は耳に入らなかったかのように、生徒はその教諭の足元に張り付いて微動すらしない。白髪交じりの数学教諭は新聞を読んでいるふりをして一言も応えない。
 事件はその前日に起こった。雅史がちょうど風邪気味で年休をとっていた日である。
 梶尾が数学の授業中に居眠りしているのに気づいた教諭は、何も注意せず、教壇から小走りで近づいて行き、無言のまま梶尾の頭をいきなり何回か小突いた。梶尾はやおら立ち上がり、教諭の胸倉を捕まえるや顔面を殴ってしまったのだという。
「ここの歯が1本折れたんだ」と、数学教諭は口を大きく開け、人差し指で治療跡の見える右の前歯をあとで雅史に見せた。
 同僚の話によると、当の教諭は事件があったとき、獲物でも捕まえたかのように鼻息荒く生徒の腕をつかんで職員室まで連れてくるや、事の成り行きを教頭に告げ、教員に暴力を振るう生徒なんて絶対に許せない、退学だ、退学だ、と血の流れている口元を3角にして叫んだのだという。
 教頭からは、担任が休みだったので学年主任に相談して話を進めておいたので理解してほしいと言われた。雅史には、会議で決まることには従いたいと返答することしかできなかった。その日の放課後職員会議が開かれ、数学教諭が退学処分との主張を一歩も譲らなかったので予想通りの結果となった。
 事件から2ヵ月余りが過ぎたころ、1学期の成績会議があった。
 白い半袖姿の教師たちが扇子などを手に、めいめい職員室の自席に着いている。窓は職員室北側の廊下まで開放され、校庭の道路際に聳える橡並木からはアブラゼミの鳴き声が聞こえてくる。まるで猥雑極まりない冷ややかな空気の流れているこの学校空間に、背後からなお一層混乱をあおるかのような不協和音を駆り立てているようだった。
「他の教科と比較してもですね、現代国語だけが異常に低い平均点数になっているんですね。長年教員をやっていますがね、こうした事例は見たことがありませんですね。うちのクラスの生徒が際立って異常な授業態度とでも言うのでしょうかねー。このあたりの事情についてですねぇ、教科担当者から詳しいご説明をですね、お聞きしたいと思うのですがね、どうなっているのでしょうかね」
 この教諭は普段は教職員組合の勇ましい活動家なのに、話し方が嫌に中性的で、切れ目に「ね」を付けて話す癖があった。聞いている方にしてみれば、調子がおかしくなるので、雅史は彼のことを内心「根付け」と呼んでいた。
「満足できない点数を取ってしまうのは、それだけ授業に取り組む姿勢に熱心さが欠けているからです。そうした好い加減な気持ちを持たせてしまうのは、普段から教師全員の責任として問われるべきです。生徒は絶えず教師の出方をシビアに観ているものです。教師がいい加減であれば、生徒は赤ちゃんが母親の気持ちを瞬時に察するように、教師の姿勢を見抜き、やる気のなさに油を注がせる結果になります。ですから、私は教師である以上、生徒には毅然とした姿勢を一貫して維持すべきであると考え、ありのままの成績を出しました」
 根付けが即座に挙手をして、再び立ち上がった。
「社会に出ていけばですね、否応なく厳しく生きていかざるを得ないのですよ。ですから学校はですねぇ、あくまで丁寧に指導をしてですね、なんというか育むという立場でね、ある程度手心を加える必要性があるのではありませんかねぇ。先生もご存じの通り、3年生は1学期の成績が外部に出ていくのですよ。成績ひとつに生徒の人生がかかっていることを考えますとねー、学校としてもですねぇ、何というのかしら、先生には気に入らないかもしれませんがね、それ相応に対応すべきであると考えざるを得ませんのですねぇぇぇ」
「仰いますが、生徒を育もうと考えるあまり、目の前の事情に捕らわれて生徒に迎合すべきではないと考えます。なんでも迎合してしまえば、たとえば生徒たちに危機的状況が生まれた場合、周りにいるのがクラゲみたいに漂う教員ばかりだったら、いざ自分の拠りどころにすべき、あるいは鏡とすべき規範性をどこに見出せば好いのか分からなくなるじゃありませんか。結局は、生徒自身まで宙に浮かせてしまい、取り返しのつかない事態を招いてしまいかねないと思います」
 生徒指導部長が、司会を務めている教頭に発言を請いもせず、いきなり立ち上がって、悪いのはお前のほうだ! と、酔っぱらいみたいに身体をふらつかせながら真っ直ぐ人差し指を雅史に向けた。
「学校現場で生徒に辛い目を見せるなんて、とんでもない。第一、先生の指導の仕方はいったい何なんですか。自分の態度も考えもせずによく他人のことが言えるな。生徒の顔も観ず、もごもご話すだけ話して毎時間終わりにしているっていうじゃないか。今回の成績は他のクラスとのバランスを考えて、再提出することを要望したい」
 この部長は、定年に近い組合の幹部で、近辺の学校にも影響力を持っており、本校全体を裏で動かしている黒幕ともいえる人物だった。
 職員室がざわついてきた。射抜くような弓矢の視線が四方八方から雅史の方に放たれている。もうこれ以上、1歩でも前に出てはいけない、自分がダメになったら誰に1番しわ寄せが行くのだ、との思いが一瞬頭を過ったが、自分を奪いたたせずにはいられなかった。
「よく生徒のためを思ってという言葉を耳にしますが、これがどういう意味なのか、同じ平教師の一人として逆にお聞きしたいですね。私の見るかぎり、すぐ群れたがるある種の教員たちは、数にモノを言わせ、恥ずかしげもなく何処へでも押しかけていきます。自分たちの至上命題のためには手段など択ばないのです。そうして本校の長い伝統の中で、いつからか始まった長期にわたる教員同士の闘争の結果、今の学校空間は救いようのないカオスに陥っていると思えてなりません。生徒たちは沈黙を守っていますが、結局理不尽な犠牲を強いられているだけではありませんか。思いやりのある教育を、と声を大にする裏側で、生徒たちはダシにされ、教員たちの支配欲を満たすための都合のいい存在に仕立て上げられているだけじゃないですか。バードケージのような柵に囲まれた空間に押しやられ、生徒たちは人間としての息遣いを圧殺させられているのと違いますか。あの生徒たちの、檻をつかんで私たち教員に向けている哀しそうな目が感じられないのですか」
 着席すると、唇と指先が震えて止まらない。
 黒幕はまたもや即座に立ち上がり、うるさい、黙れ、洟垂れ小僧のくせに、一人前の口を利くんじゃない。お前みたいな奴がいるから本校の生徒に落ち着きがなくなるんだ、と蝮のような目つきで雅史を威圧した。
「このあいだの対教師暴力事件だって、もとはといえばお前の指導が原因じゃないのか」
 梶尾の話が出ると、出席者の表情が瞬時に変わった。雅史と同じく組合に加入していない数少ない教師に目をやると、顔は青ざめ、下を向いた表情からは、なお一層自分を案じてくれているのが分かる。
「あいつは1年の時から何かと問題を起こす生徒で、2年になると程なく自動2輪で人身事故まで起こしている。謹慎が解けたばかりだっていうのに、対教師暴力事件を起こすとはどうなっているんだ、お前は本当に指導していたって言えるのか。こういう問題生徒には普段から積極的に近づいていって、意志の疎通を図っていることが必要なんだよ。新採だって知っているよ、こんな理屈は。俺たちの組合を批判するけれど、お前こそ受け持ち生徒にさえ目を向けることができなかったんじゃないのか。コミュニケーションが取れていたっていうなら退学生徒など出すはずないだろう。ええ? いったい話しかけたことって何回あるんだ、覚えてないだろう。学年の、制服や頭髪検査の一斉指導にだって合わせようとしないというし、我々とかかわるのを避けようとしていつも逃げ回っていて、まるでドブネズミじゃないか。自分だけしか目に入らないんだよ、お前は、なお、おい、それでも教員といえるのか、ああ! どうなんだ、はっきりしろい」
 取り巻き連中は2人のやり取りを静観していたが、黒幕が口から泡を飛ばし、部屋中に恫喝の声を響き渡らせると、自分たちの席を一斉に立ち、彼の周りに集まっていった。
 結局、指導の仕方はとにかく、成績評価については決を採ることになり、再提出してもらうという賛成多数で校長の決済が下り、この件は落着させられてしまった。
 その後、雅史はクラスの生徒を何とか3学年の終わりまで受け持ち、卒業させるや定時制に異動していった。

 一文字一文字、言葉をかみ砕きながら一通り読み終わると、こうした姿勢で良く教職が勤まったなと、冷や汗を禁じ得ない。確かに自分の信念は通せたかもしれないが、あまりにも一途じゃなかったのか。何かその場では見えない、とてつもなく大切な存在を一つひとつ取りこぼしていき、却って犠牲を強いてきたように思えてならない。なぜあのような言動に走ってしまったのか、今でははっきり思い出すことはできないが、いかにも忍び得ないある種の憎しみや怒りを覚えていたからに違いない。だがいったい、何に対してだったのか、はっきりしないところもある。
 雅史は退職以来今日まで、縁あって教育畑の端くれでアルバイトをさせてもらっている。これが他人のためにできる今の唯一の仕事であり、労働である。何であれ、心身ともに働けるうちはどこまでも働きたい。このためにも、業務をやり取りする担当者や会社のあり方に納得がいかず、ひどく腹立たしく思うことがあったとしても、コアなところを棒に振るようなことだけはいかにしても避けなければならない、と切に思うのだった。だが自分に本当にできるのだろうか、いやそうしなければならないのだとも考え直した。
 8月下旬の残暑の最中、欅の茂みや梅林のなかなど、家の四方八方で今を限りとアブラゼミが鳴いている。