文房具店             
               中井和子 
 
 地方都市の商店街は、シャッターを下ろして、毎日が定休日のようで、侘(わび)しい街(まち)並みになってしまった。
 芳恵の住む街の、通称『銀座通り』の商店街も、いまでは、秋風にシャッターがきしみ、荒んだ音を立てている。 
 街並みの活気を取りもどそうと、コンクリートの道路を石畳に模様替えをして、おしゃれな雰囲気に変えてはみたものの、客足は郊外に出現したショッピングセンターへと流れていったままだ。
 芳恵もめったに来る機会のなくなった商店街を、今日は近くでの用事を済ませての道すがら、久しぶりに石畳の道を歩いていた。
 東北の晩秋の暮れは早い。午後四時ともなれば冷たい風が芳恵の体に一瞬まとわりついて、短い髪を吹き上げる。芳恵はとっさに髪を押さえ、黒の半コートに巻いたベージュのマフラーに顎(あご)を埋めた。
 シャッターの通りの中で、昔からの一軒の文房具店が明るく輝いているのが見えた。
 文房具店には若い日が詰まっているようで、七十歳を越した芳恵にとっても心楽しい空間なのであった。店に寄りたくなった。とたんに、芳恵は万年筆のインクのカートリッジの予備がなくなっていることを思い出して、弾みがついて、店の中に入っていった。
「いらっしゃいませ!」
 銀縁の眼鏡を掛けた年配の女性が、ショーケースの内側から、にこやかに芳恵を迎えた。色白の顔に、コバルトブルーのブラウスに黒のパンツスーツがよく似合っている。店の主人であろうか。その女性は愛想よく、
「お寒くなりましたね」
 と、言いながら、そして、今日は何をお求めで? と、いう風に首を傾(かし)げた。
「万年筆のインクを頂きたいのです」
「はい、承知しました。それで万年筆の種類はなんでしょうか?」
「モンブランなの」
「インクの色はブラックとブルーがございますが…」
「ブルーをお願いします」
 その女主人らしいその人は頷(うなず)きながら、背後の棚からカートリッジの箱を取り出して小さな紙袋に入れた。
 芳恵は店内を見渡した。奥の方の画材コーナーでは、一人の年配の男性客が若い女店員に、新しい画材の説明を聞いているようすが見えた。
 別の文具棚では、若い男の店員が、ポス・システムの端末を片手に、一品ずつ商品を管理しているようすが見えた。 
 芳恵は奥の方に目をやりながら聞いた。
「ちょっと見せていただいてもよろしいかしら」 
「どうぞ、どうぞ、ごゆっくりご覧になってくださいませ」 
 芳恵は各売り場を眺めて歩いた。このごろは文房具類も進歩して、色彩も種類も豊富になり、眺めているだけで楽しくなる。
 昔の文房具店は、絵画の用具を除いて、茶系統やグレー、白黒などの色彩の文房具が並び、勉学への緊張と昂(たか)ぶりを覚える場でもあった。いまは懐かしい。
 芳恵は結局、封筒と便箋を追加購入して店を出た。
 いま、目の前の女主人と思われる年配の女性と、芳恵が二十数年前、旅先で出会った女性、田口千枝子と重なる。顔も雰囲気も正反対で、似てはいないのだが、それは『文房具店』という舞台が同じであるからかもしれない。
 
 その二十数年前の旅とは、旅行会社が企画した女性だけの『北海道旅ツアー』で、芳恵は、友人の佳代と参加したのであった。
 第一夜は、各地から参加してきた女性たち百名ほどが一堂に会しての立食パーティーであった。
 主催者の『乾杯!』の音頭で会場は盛り上がり、芳恵と佳代もお互いのジョッキを合わせ、ビールを口に含んだ。
 佳代の大きな目が、更に大きく丸くなり、「美味しい! やはり地元で飲む土地のビールの味は格別よねえ」
 と、声をはずませて嬉しがった。
 それから、芳恵と佳代はジョッキを片手に、日常の生活からの開放感で、日常のとりとめのない話で盛り上がっていた。すると、芳恵たちより少し若い、四十二,三歳ぐらいの見知らぬ女性が微笑を浮かべながら近づいてきた。
「楽しそうですねえ…。私、田口千枝子と申します。東京からです」
 その田口という女性は、化粧はしていないが整った顔立ちに、ベージュ色のブラウス・スーツがよく似合う、下町風の小柄な女性だ。
 そして、芳恵たちに、
「どちらからですか?」
 と、首を傾げ、微笑んだ。
「高田市からです」
 芳恵たちも微笑み返した。
 すると、親しげに微笑んでいたその田口千枝子の表情がこわばったのを芳恵は見逃さなかった。そして、その千枝子がためらうように聞いた。
「阪町って、お近くですか?」
「いいえ。阪町は山一つ向こうの、農地の広がる穏やかないい町ですよ」
「そうですか……」
 と、視線を床に落とした。佳代は、その千枝子の顔をのぞき込みながら聞いた。
「その町に、お知り合いの方でもいらっしゃるのですか?」
「いいえ……。ね……」
 千枝子は、一瞬ためらいをみせたが、顔を上げると、旅の開放感と、見知らぬ人間に話しても累は及ぶまいという安心感もあってか、遠慮がちに話し始めた。
「私は東京で文房具店をやっています。実はその阪町出身の短大生が、四ヵ月前に店の前を歩いていて、私の見ている前で倒れたのですよ。私は驚いて、その女性を家の中に入れて休ませたのです。往診して頂いた先生の話では、栄養不良で体が弱っている、ということでした。それなら若いし、すぐ元気になれるのではと、それまで、短大生を家に泊めておくことにしたのです」
 そして、千枝子はちょっとためらいをみせたが、覚悟をしたかのように、一気に話し始めた。
「それでね……、うちの主人が悪いのです。その娘を妊娠させてしまったのです……。私たちには子どもがいなかったので、同居している姑(しゅうとめ)は、孫ができた、と喜んでいるくらいなのですよ」
 千枝子の親切心が裏目となった事態に芳恵たちは呆然とした。同じ屋根の下で? そのうえ、家族のそれぞれのエゴイスティックな行動や考え方に呆(あき)れたのであった。
 初めて会った人からまるで小説のような重い話を聞いてしまったと、芳恵たちの方がうろたえるほどであった。
『庇(ひさし)を貸して母屋取られる』の譬(たと)えのことばが芳恵の頭の中を回りめぐった。
 もちろん短大生が悪いわけではない。その若い娘も被害者なのである。
「それで、もし、その短大生がずっと居るようなことになったら、あなたはどうなさるの?」
 芳恵は言ってしまってから、心配のあまり、残酷なことを口走ってしまった、と後悔した。
 しかし、千枝子は毅(き)然として言った。
「仕事は、私が仕入れから、何から何までやっているので、私が家を出るわけにいかないし、私も出たくはありません。いざとなれば、もう一軒、店があるので、そちらへ行っても、と思っています。舅(しゅうと)のお父さんだけが私に気を遣(つか)ってくれて、感謝しています」
 千枝子に味方がいてくれて、よかったと、芳恵たちは救われた。
 パーティーが終わり、住所も電話番号も交わすことなく、芳恵たちは、
「頑張ってくださいね」
 と、千枝子と別れた。
 そして、千枝子とはそれきり、ツアー旅行中も二度と顔を合わせる機会はなかった。

 芳恵はそのときの千枝子との出会いを、二十数年たったいまでも昨日のことのように思い出されるのである。
 もし、千枝子が仏心を出さずに、救急車を呼んでいたとしたら、事態は変わっていたであろうにと、千枝子の優しさが仇(あだ)となってしまったことが芳恵たちには残念でならかった。

 芳恵と佳代は自分たちの部屋に引き上げてからも、千枝子にどのような解決策があるのだろうか、など、課題を与えられたかのように、また、部屋のビールを飲みながら話し合っていた。
「それにしても千枝子さんの夫は許されない。その十九歳といった短大生も、まさか『飛んで火に入る夏の虫』になってしまうとは思わなかったでしょうに……。しかし、あの田舎から出てきて、何を勉強したかったのかしら?」
「そうねえ。なにか専門的なことでしょうね。それにしても阪町の両親の戸惑いと落胆と怒りも容易に推測できるわ、ね。胎児は葬られるかも……」
「それはないのでは? 後継者ができたと、喜んでいる人もいるのだから、ね」
 短大生も、志を持ってがんばっていたのであろうに、千恵子の夫の出来心が、短大生の人生を、そして家族の歯車をすべて狂わしてしまったのである。
「昔ね、『男はみんな狼よ』って歌があったじゃない? 女は若ければ若いほどいい、なんて男は言うけれど、それってオスの種の保存本能からきているのかしら、ね?」
 ろれつが怪しくなってきた佳代はひとり合点し、ひとり大きく頷(うなず)いている。
「さあ、明日は早い、もう寝ましょうね」
 二人はそそくさと寝じたくを始めた。

 あれから二十数年、千枝子はどのような道を歩んだのであろうか。
 もし、あのときの子どもが生まれていたら、もう、成人しているはずである。
 芳恵には、一期一会の田口千枝子であった。だが、予期せぬ出来事に翻弄された彼女の長い人生に、せめて今日の日日が『終わりよければ全てよし』であってほしい、と思うのであった。

 芳恵が商店街を振り返ると、夕闇の迫った道の両側には街路樹に絡みついたLEDの青いイルミネーションが冷たく光り輝いている。
 文房具店の黄色の温かな灯(あか)りがひと際(きわ)明るく、通りまで光が流れ出ていた。