虫の音
               中井和子
 
 東北の山に囲まれた過疎の村落も八月半ばになると、旧暦の盂蘭(うら)盆の精霊祭があり、世間の夏休みと重なって帰省客たちで賑わう。
 その村落に、定年になるまで町役場に勤めていた八十五歳の津村久雄と八十三歳になる妻の美津が暮らしていた。
 その美津の家にも来週末、東京に住んでいる長男夫婦一家が夏休みでやってくる。二人の孫も大学生になり、その一人は来春就職するという。美津は孫の成長を喜びながら、自分たちが老いるのも当然だと嘆息が出る。
 娘の響子のほうの一家は、例年、長男である響子の夫の実家がある長野の方で夏休みを過ごすことになっていた。
 そして響子は、夏休み以外の二、三日の連休などがあると、その休みを利用して里帰りをしていた。

 美津は細身の、少し前かがみになってしまった腰を伸ばすと手をかざして空を仰いだ。強い日差しに、思わず眼を細める。
 長男の家族たちがやって来るのも、もう五日後に迫っている。『ああ、みんなのふとんを干しておかなくちゃあ、な』と、美津はつぶやくと、いそいそと家の中に入った。
 階段の下で一瞬足を止めて上を眺め、覚悟を決めたように、二階へ「よいしょ、よいしょ」と掛け声をかけながら、一歩一歩力を入れて上がっていった。日頃は殆んど使われていない二階の三部屋である。
 しかし、美津が嫁いできたときは、久雄の祖母がいて、両親がいて、弟妹三人もいて八人の家族であったから、当時はどの部屋も賑やかであった。いまは夫婦二人だけの生活で一階の四部屋で十分間に合っていた。
 二階の三部屋の窓を大きく開け、ふとんの入っている押入れの襖を開けた。かすかに湿気を含んだ綿のにおいがした。それでも嫌な匂(にお)いではなく、懐かしささえ感じられる匂いであった。
 昔のふとんは綿が厚く入っているので、取り扱うのにたいへんになってきた。日ごろ、畑仕事で鍛えているはずなのに、衰えの方が早いのであろうか、など、美津は内心ぼやきながらふとんと格闘をしていると、畑から帰ってきた久雄が二階へ上がってきた。
「ああ、俺がやっておくよ……」
 と、言いながら、美津からふとんを取り上げて、陽(ひ)の当たる場所にふとんを掛けていった。年をとってもやはり男だと、美津は、頭が白く薄くなった久雄へ、 
「そうか、じゃあ、お願いします。お茶の用意をしておくから……」 
 そう言うと、大きく一つ息をついて階段を下りた。
 開け放してある勝手口に、キュウリ、トマト、カボチャ、インゲンなど、久雄の収穫した野菜が置いてあった。美津はチラッとそれらを眺めながら、冷蔵庫から水羊羹(かん)を取り出して皿に置き、キュウリとキャベツの揉み漬けを丼に盛った。
 茶の間のテーブルにお茶の用意ができたところで、久雄が二階から降りてきた。
「お、うまそうだな」
「うん、この水羊羹は滝子さんからだよ。さっき、預かってきたって、清吉さんが届けてくれたのよ……。滝子さんもなあ、足と腰が痛くて歩くのも辛くなってきたって、この前電話で話していた」
 滝子はこの近くの出身で、久雄の家から1キロほど離れた武田家に嫁いでいた。美津より二歳年長で、評判の働き者であった。
 美津が久雄に嫁いできたとき、地域の婦人会で知り合い、それ以来、ずっと友人として付き合ってきた。
「ああ、大変だな。旦那の重吉やんも、少しでも動けるといいのだが、な。滝子さんも、その世話をしながら、あの広い畑の仕事も独りで頑張っているのだから難儀な話だ。田んぼは農協に頼んでいるのからいいがな……。 息子は町で会社勤めをしているそうだが、車でくれば雑作もないことなのに、な」
「そうなの。でも、毎年、盆には孫たちもいっしょに来てバーベキュウをしたり、賑やかにして、それを楽しみにしているみたいだよ。私もこのところ何かと忙しくて、滝子さんにはご無沙汰して悪いと思っているの。盆が過ぎたら行ってみよう」
「ああ、そうしてやったらいい」
 開け放してある廊下から、ときどき気まぐれに涼しい風が入ってくる。
 しかし、外は風などそよとも吹かず、焼けつくような日盛りである。家の周囲に広がる黄金色の田園風景は、アブラゼミ、ヤマゼミ、ツクツクボウシのセミしぐれに、じっと耐えているかのように頭を垂れ、静まり返っている。
 しかし、盆祭りの帰省客たちの声や足音がいっとき村落に響くと、その田園風景が晴ればれと、いきいきと見えてくるから不思議だと、美津は毎年、盆祭りになると思うのである。
 美津は確かめるように、カレンダーに目をやった。今日は八月七日だ、と確認したら、盆祭りの準備をしなければ、と急に気が急いてきた。
 美津は久雄に言った。
「な、おとさん。あとで仏壇に飾る提灯(ちょうちん)を戸棚から出しておいて、な」
「ああ、やっておくから心配すんな。ところで仏壇への供物のこともあるし、孫たちの食い物も買ってきておいたほうがいい。明日、町へ買い物に行ってみるか?」
「ああ、そうしたいな。家の庭の花は墓花にしかならないから、仏壇に飾る花も買ってきたいし……」

 夏休みでやってきた息子と孫たちは、野菜を採りに久雄といっしょに畑へ出かけて行ったり、近くの山を散策したりで、数日の田舎生活を楽しんでいた。
 だからといって、ここへ帰ってきて住もうとはだれも思わないのだった。
嫁の多摩子は、年に一,二度の帰省ぐらいはと、料理、掃除(じ)、洗濯に忙しく立ち働いた。 
 美津は、また、そのきびきびとした様子を見て、若さに感心する。
 そして、かつて自分も若いときは家族のために家中を、田畑仕事に駆けずり回っていたと思い出すのだった。
 息子一家は短い夏休みを楽しみ、野菜をいっぱい車に積んで帰っていった。
 それを見送りながら、『やれ、やれ』とほっと一息つく自分がいた。息子や娘たちの帰省は大いに楽しみに待たれるのであったが、しかし、もう、美津には、寝具や食事の世話が負担になってきていた。『来てよし、帰ってよし』、だれかが言っていたことばを思い出して、美津は全くだと、苦笑した。

 また、二人だけの静かな生活に戻(もど)った。
 夫の久雄は、今朝早くから近くの山の沢へ山ワサビを採りに出かけて行った。美津は洗濯物を干しに庭へ出た。
 庭の隅に一本の古い桐の木がある。上部の朽ちた穴に、数ヶ月前から棲(す)みついているムササビの姿があった。まん丸の眼(め)で美津を眺めている。昨日までは人の出入りで賑やかであったから、どこかへ避難していたらしい。
 今朝はまた、桐の木にもどってきて、洞穴から顔をのぞかせている。ムササビの背は黒褐色で腹や頬(ほお)の部分は白い。体長は四十センチほどで、姿はリスのようで可愛らしい。前後の肢(あし)の間にある皮膜を広げて木から木へと滑空するようすなどは想像もできない。
 そのムササビが丸い眼をして美津を見下ろしている。
 美津は上を仰ぎ、ムササビに語りかけた。
「また、静かになったなあ」
 山あいの村は、老人の姿が多くなり人影も少なくなった代わりに、イノシシやハクビシン、タヌキなどが横行し、畑の作物などを荒らすようになった。けれどもそのような動物たちも生きていくのに必死なのだと、美津たちは大様に構えてなんの防護策も取らないでいる。

 そして、八月二十日の二十日盆が過ぎた早朝であった。
 久雄は、朝のまどろみの中で、家の西側の道路を、ときどき小走りに行く足音を聞いた。久雄は『なにかあったな』と、起きて身づくろいをした。美津も目を覚ましていた。
「何事か?」
「わからん」 
 電話が鳴った。久雄は急いで茶の間へ行って受話器を取った。
 美津はふとんの中で身を起こして、夫のようすをじっとうかがっていた。久雄は肩を落として、うめくような声を出して応対をしている。
 そして受話器を置いても、受話器からなかなか手を離そうともせず、うな垂れていた。
 美津は、不安そうに聞いた。
「何かあったのかよ?」
「あのな……、気をしっかり持って聞けよ。滝子さんが死んだ。家の二階でな……。困ったな」
「なんで? 脳溢(いっ)血か、何か?」  
 美津は怒った口調で言った。
「それは、まだわからん。仏さんが警察からもどってきてからだな」
「警察って、何なの?」
 久雄は言葉に出せなくて、片手で首を押さえてみせた。
「どうして?」
 美津は立とうとしたが立てない。頭を何かで殴られたような衝撃と、驚きと、悲しみがいっしょになって美津を襲った。そして、美津は力になってやれなかったことを悔やみ、自分を責めた。涙が滂沱(ぼうだ)と流れ落ちた。

 滝子の葬儀で、滝子のようすが密やかに人人の口の端にのぼり、美津はようやく、滝子の心情を知ることができた。
 滝子は、毎年の夏休みに、孫たちのくるのを楽しみにしていた。しかし、長男の家族も次男の家族も、誰一人顔を見せなかったのだそうだ。
 身体も弱り、家に閉じこもりがちになった老夫婦には侘し過ぎる盆であった。
 美津は、盆が終わったら滝子に電話をしてみようと思っていたのだから、すぐに電話をかけてやればよかった、事情がわかれば、慰めもできたであろうにと、美津は自分を責めるのだった。
 そして、その後悔の念に押し潰されそうで、美津は横になっていることが多くなった。
 久雄は、そのような美津に同情しながらも、叱咤(た)するのであった。そして、残された人たちを地域のみんなで支えていかなければならない、と励(はげ)ました。
 美津は何度も大きくうなずいた。

 台所の片隅から、弱弱しい虫の音が聞こえてきた。
 もう、秋なのであった。