比喩はほどほどに

〈質問〉
「月刊ずいひつ」4月号を拝見させていただきました。中でも、『やさしい文章作法―便利すぎる「こと」―』は、むさぼり読みました。分かりやすく、やさしく面白く書いてありますので大助かりです。
 ところで、その4月号によりますと、「便利なことばに頼っているうちは、コクのある洗練された文章をものにできないと、くどいようですが、言い聞かせてください。……(中略)……こういう類のことばは、ほかにもいろいろあります。例をあげますと、『……のように』とか……(後略)……」とあります。
 そこで、その「……のように」というのを、どうして使ってはいけないのか、お教えくださいませんでしょうか。
       (一戸市のT・Yさん)

 幼児語の意味
 子どもがことばを覚える場合、簡単なストレートな、それでいて便利なことばから、と相場は決まっています。
 たとえば、「ばか」「あほ」というような二つの音から成り立っている単純なことばから、「おいしいね」「まずいね」という抽象語や「きれい」「きたない」という観念語へと発達していきます。
 もう少し進むと、「花のようにきれい」とか「星のように美しい」という類の表現となります。つまり、比喩(ひゆ)の効用を覚えるわけです。これは、便利な利用法だからにほかなりません。
 何度も書きますが、便利なことばほど文章としては稚拙なもの、と心に言い聞かせてください。文章とはおとなのものだとご理解くだされば、私の意思をくみ取っていただけるはずですが……。

「……のよう」の2つの意味
 前述しました「花のようにきれい」とか、「星のように美しい」という比喩は、何かを説明するために、ほかのポヒュラーな物件の名をあげて、その力にあやかろうという楽な姿勢にほかなりません。
 この場合は「花」「星」の力を借りて、「きれい」「美しい」という、本来ならば描写すべき部分、箇所を逃げているわけです。作者としては、この「きれい」「美しい」ということばの内容を描写しなくてはなりません。つまり、それが作者の腕の見せ所なのです。文章の味と還元してもいいでしょう。
 比喩の場合とはちょっと異なりますが、「……のよう」には、もう一つの推量(測)の場合があります。これは、比喩の場合とは意味が違いますので、気にすることはありません。例をあげてみます。作者は五木寛之氏です。

  子供の頃、ぼくらはみんな鋭利な刃物を持っていた。その刃物は、肥後守(ヒゴノカミ)と呼ばれていた。それぞれのメーカーはことなっていても、形式はみな同様で、ぼくらはそれで鉛筆を削り、果物の皮をむき、竹トンボを作り、ときに学校の裏庭で決闘をするためにポケットにしのばせたりもしたものだ。
 その和式のナイフは、鋭利なものではなく、どこか犯しがたい風格のようなものをそなえていたような気がする。(注・下線は神尾記す)

 上記の文章は「LEE」3月号(昭和62年)の「僕の見つけたもの」の「鶴来(つるぎ)の『かわとり包丁』」の出だしの文章です。
 くしくも、この文章には「風格のような」という比喩と、「そなえていたような」という推量の二つが、すぐ近くで用いられています。使用の是非はともかくとして、ここでは「ような」の意味の違いに注目してほしいわけです。

 比喩は逃げ道
 人間という動物は、なまじっか知恵があるばかりに楽をしようと、ずるい考えを持ちます。もっとも、それが文化を推進し、文明をうながしてきたのですが……。ノーベル氏は平和の目的で発明したダイナマイトを戦争に使われ、エジソン氏をはじめとする発明家、科学者もまた戦争に関与せざるをえませんでした。アインシュタイン氏にしても同じです。
 そして二十一世紀を目前とした現在、文明のマイナスの海にとっぷりとつかりきっています。やがて、人間は自らつくりだした文化によって自滅するに違いありません。
 ちょっと話は脱線しましたが、この「……のような(に)」というのも同じ理屈です。物書きは楽をしようと考えてはいけないのですが、水が低い所を求めて流れるのと同じで、つい楽な方へと流されます。酒の誘惑、女(男)の誘惑、賭け事の誘惑、金銭の誘惑……と、人間は「誘惑」に弱いのです。文章とて例外ではありません。
 しかし、いやしくも物書きを志そうという人は低い次元を目指してはいけません。楽をしてはいけません。ここで私が言いたいのは、「……のように」「……のような」という比喩、譬(たと)えに寄りかかるな、ということなのです。つまり、安易すぎる文章を書いてはいけないと、賢明な諸兄姉は、ここで自戒してほしいのです。
 ここで、思いつくままにそうしたものをあげてみますと、「星のようなつぶらな瞳」「りんごのように紅いほっぺ」「白魚のように細くて白い指」「カモシカのようにすらりと伸びた脚」「氷のように冷たい心」「象のようにやさしい眼」「猪のように脇目もふらずに」「チョコレートのような茶色のコート」「タンポポのように美しい黄色」と、数限りなくあります。
 ここまで例をあげますと、いかに比喩が逃げの姿勢かというのが、お分かりいただけたことと思います。
  
 プライドと自信を持て
 では、なぜ安易な比喩を一部の作家、あるいは物書きを志す人たちが用いるのでしょうか。
 理由の一つは、いま私が「楽をしようとしているからだ」と指摘しました。しかし、もう一つ、私はここで付け加えたいのです。それは、「自信がないからだ」という簡単明瞭(めいりょう)な一事をです。これは「努力不足」と「プライドのなさ」という二つの事実に裏づけられています。
 少なくとも、プライドの高い人、自信のある人なら、こういう安易な表現はしないでしょう。気にくわない表現しかできなかったときは、
「おれの文章としては弱いな」
 とか、
「このセリフは、ちょっと安易だわ」
 と、一人でつぶやいて、腕を組んでください。そして思案、くふうしてください。そうした、ちょっとした努力で、いい文章、いいセリフが必ず浮かんでくるはずです。全神経、全知力を傾ければ、すぐに解決する問題です。もちろん、最初からよい文章、いいセリフが書けるはずはないのですから、たとえ望みどおりにいかなくてもしょげる必要はありません。こうした努力の積み重ねが、やがて読者を感動させる作品をものにする原動力となるのですから……。
 要はあせらないことです。あわてず、確実に一歩一歩と突き進んでいってください。求める者は、必ず救われるのが世の常ですからー。ただし、謙虚でなくてはいけません。思いあがった態度では逆効果です。それこそドグマに満ちた、説得力のないものになってしまいますから、くれぐれもお間違いのないように!

 悪文の例
 何だ彼だといっても、理屈は結構という人のために、ここに比喩だらけの悪文を例に出してみます。

  おれは彼女を一目みたとき、天にも昇らんばかりの心地だった。まず、彼女のあの星のように澄んだ美しい瞳、そしてクレオパトラの鼻もかくやと思われるような形の良い鼻梁、りんごも顔負けしそうな紅い頬、紅バラのように鮮明で品の良い唇……。彼女はまるで女神のようだった。

 いかがですか。こういう書き方ですと、描写の入り込む余地がありませんね。そうなのです。これは描写ではなく、単なる「文字遊び」か「ことば遊び」にすぎません。作者の意思、心の底からの叫び、あるいは努力やくふうというものが、まるで感じられません。ただ、既成概念にひたすら頼って文字を羅列しているに過ぎません。読者とて、これではイメージが浮かんでこないでしょう。譬えに引き出された物や人物が悲しがるに違いありません。
 どうか、T・Yさんをはじめ、読者の諸兄姉は、こういう愚はおかさないでください。

 結論―
 手垢(あか)のついた使い古されたことば、あるいは慣用語、もしくは比喩は、なるべく用いないぞ、と自分自身に言い聞かせてください。そう心がけると、自然と別のことばや文章が浮かんできます。つまり、意識することが大事なのです。
 描写は意識から、と頭の中に叩き込んでほしいのです。