五分間、目を閉じてみよう
             黒瀬 長生


 毎日新聞のコラム欄を執筆されている近藤勝重氏の文章作成の教本を読んだ(『書くことが思いつかない人のための文章教室』幻冬舎新書)。
 文章を作成するにあたって、テーマは何を書くか、いかに表現するか、描写力向上の手法、接続詞や比喩(ひゆ)の使い方、推敲の手順など参考になる部分がたくさんあった。
 ことに、伝わる文章の秘密、『五分間、目を閉じてみよう』の項目に興味がわいた。
 今まで文章作成の教本は何冊か手にしたが、『五分間、目を閉じてみよう』などと書かれたものはなかったからである。

 私達の日常生活で睡眠以外に、目を閉じる機会はどの程度あるだろうかと考えてみた。
 一瞬のまばたきは勿論(もちろん)だが、入浴中の洗髪、理髪店で顔をあたってもらっているとき、あるいは歯科医院の歯の治療中などを思い浮かべた。
 また、実体験はないが禅宗の座禅も、静座して目を軽く閉じ、精神を集中させて無念無想の境地で仏心を見るのであろう。
 こんなことを考えると、意識して目を閉じる機会は限られているのである。そのため、興味本位で自宅の居間の椅子に座って体験することにした。

 いざ目を閉じてみると、五分間は想像以上に長い時間であった。はじめは、時間の経過のみが気に掛り、目を開けると三分しか経過していなかった。
 二回目は、目覚まし時計をセットし、時間の経過を気にすることなく目を閉じることにした。心臓の鼓動が聞こえた。血液が足先の方向に流れる感じがした。まさに生きていることを実感させられた。また、時期外れの風鈴の澄んだ音色が聞こえた。手の指の間を風が流れた。庭の植木の匂いが鼻先をかすめた。全身が沈んでいく感じで、耳や鼻にすべての神経が集中しているようである。
 ベルの音で目を開いた。明るい窓外に目がいった。青い空、隣の家の黒い屋根と白い壁、庭木の緑の風景が飛び込んできた。次に、室内のカーペットやテーブル、テレビ、新聞、広告類、読みかけの雑誌などが目に入った。
 目を閉じる前とは明らかに違う新鮮な光景である。今まで同じ光景をいかに注意散漫で漠然と眺めていたものかと思い知らされた。
 三回目の挑戦は、十分間、目を閉じればどんな現象が起こるであろうか、と興味津々(しんしん)で実行した。
 結果的に前回と違った点は、亡き父母や兄弟の顔が浮かんだ。身体全体がとろけて無くなってしまうような感じがした。生と死が頭を過(よぎ)った。死とは、こんなものかという気持ちにさせられた。何も見えないが、穏やかな漆黒(しっこく)の空間と時間であった。

 目を閉じれば何も見えない。頭の中で思い描くだけである。何も見えないから残された感覚で必死に状況を捉えようとする。聴覚や臭覚、味覚、触覚を駆使してである。ことに目を閉じると聴覚と臭覚が異常な働きを始めるのである。
 普段の生活では、目で捉えた映像を頼りに、それ以外の感覚は、それぞれ推測しているのである。物事を目視(もくし)すれば、何となく過去の経験から臭気や音声などを想像できるからである。
 例えば、小鳥や虫の鳴き声はああであった、バラや金木犀(きんもくせい)の香りはこうであった、と記憶が蘇(よみがえ)るのであろう。
 そのため目視で捉えると、あとは鼻や耳の働きは一時休止した状態になっているのではないだろうか。

 この教本によると、¬五分間、目を閉じれば、目視での印象とは異なった本質的なものに巡り合い、感性豊かな文章になると教えているのである。
 眼聴耳視(げんちょうじし)なる言葉もある。目で聴き、耳で見るようでなければ物事の真実は分からないという意味である。しかし、現実ではそんなことは不可能で、この言葉は文書作成にあたって、配慮すべき心構えとして受け止めるべきであろう。
 『五分間、目を閉じてみよう』は、文章の作成のみならず、想像だにしない別の世界を垣間見させてくれた。まさに、不思議な世界であった。