アガペーという愛     羽田 竹美


 右の足が痛い。じっとしていると痛みは感じないが、歩くと突き刺さるような痛みがある。
 3か月前、整形外科のドクターがレントゲンを見ながら、
「手術した足首をかばうから負担をかけているんです。左を軸足にするようにしてください」
 と、言われた。しかし、あれだけ大きな手術をしたのだから、おいそれとは軸足になんかできない。毎日家で筋トレをして左に力をつけようとしているのだが、それも思うようにはいかない。もう手術をするのはいやだ。股関節だけで5回、膝と左足首を人工関節にして私の体は自分のものではなく徐々にサイボーグになりつつある。今まで大小の手術を合わせて12回している体はあちこち切っているので血流は悪くなるし、リンパの流れもスムーズにいかない。寒さや、湿度に関係して、攣(つ)ったり痛みが出たりで、自分ではどうにもならない体の変化に悩まされる。それでもじっとしていることが嫌いな私は「なにくそ精神」で動き回る。でも、結局無理をしてやりすぎ、泣きを見ることが多いのだ。後で、「なんてバカ」と後悔しながら「次のステップに這い上がる」の繰り返しである。夫が元気なころはそうではなかった。すぐぺちゃんこになり、夫に泣き言を言っては慰めてもらって元気になった。夫亡き後、誰も頼る人がいなくなり自分ですべてを処理しなければならなくなった。弱虫な私は何を頼りに生きていくのか悩んだ。自分の運命を呪っても何にもならない。
 幼いころ教会の日曜学校に遊びに行き、中学高校はカトリックのミッションスクールで学んだ神の存在が、気づかない程度にひっそりと心に入り込んできた。あのころは「神なんか信じられません」と、かたくなに否定していた神にひっぱられるように教会に行こうと思い、気がついたときには洗礼を受けていた。
 聖書やカトリックの教義を勉強し、ミサの中での司祭のお説教を聴き、私の頼るものはこれだと確信した。「他人を自分と同じように愛しなさい」「貧しい人、困っている人、病気や怪我で苦しんでいる人に手を差し伸べなさい」
 すべてこの愛は見返りを求めない愛、アガペーという愛だという。ラブでもエロスでもないこのアガペーは神が私たち人間にくださっている愛だという。こんな愛を私は人に与えることが出来るだろうか。それに「人を赦しなさい」という。「赦さなくては自分も赦されない」
 大きな課題に戸惑うことが多い。
 昨年、ある人からひどく心が傷つけられ、言い返しが出来ず、悔しくて悲しくて落ち込み、胃炎になってしまった。今まで仲よくしていた人だっただけにショックが大きかった。それでも赦さなくてはいけない、赦せないを何度心のなかで重ねただろう。毎日の食事が入らない。食べると胃がむかむかしてしまう。お薬を飲みながら、神に「どうしたらいいのですか」と、叫んでいた。
 神父さまにお話しすると、
「神に委ねなさい。神が裁いてくださる」
 と、言われた。それを聞いて少しずつ心の落ち着きを取り戻した。
 私にひどいことを言った人は老人性痴呆が急速に進んで、千葉の辺鄙なところにある老人ホームに入られたそうだ。私を傷つけたあの言葉も痴呆からきたものだったと後でわかった。
 カトリックの勉強会で、ご高齢の神父さまが、
「そんなにたくさん手術をしたのですか、あなたは神様に愛されているのですね」
 と、しみじみ言われた。こんな私でも神は愛してくださっているのだ。
 一昨年足首の手術をしたとき、吐き気が毎日続き、苦しみの中で「わたしは世の終わりまであなたと共にいる」という聖書の言葉を思い出していた。
 4日目の朝ふっと楽になったとき、誰かの手に触れられたような気がした。寝ぼけていたのかもしれないが……。
 教会の人たちはやさしい。
「足は大丈夫? あなたのためにお祈りしているわよ」
 そして、ある人に、
「痛みは神様にお捧げすると、もっと辛い方の痛みを取り除いてくださるそうよ。あなたのその痛み神様に捧げたら?」
 と、言われた。そうか、それも愛かもしれない。足の悪い私のお役に立てることがみつかった。うれしくなって、外出するとき足首の痛みがあると、「この痛みを捧げます」とつぶやいて歩いている。坂を上がるとき痛くても祈りながら上がると痛みが和らぐ。これも気のせいかもしれないが、今日も痛みがなくなっていた。