あいさつ   
                   中井 和子
 

 庭の赤、白のボタンの花が今年も見事に咲いて、目を楽しませてくれた。この季節の来し方がなつかしく思い出されて、私は心の中でありがとう、と言いながら潮垂れた花房を切った。そして、その周囲の雑草を抜いていた。
 すると、家の前の道を灰黒色の猫がゆっくり歩いて行くのが見えた。たまに見かける猫で、飼い猫なのか、野良猫なのかわからない。
 私にいたずら心が起きて、猫に「ニャア」と、声を掛けた。少し距離があったせいか、見向きもせず、ゆっくりした足取りで歩いていく。私はもう一度「ニャア」と言った。猫は振り向いたが、そのまま行ってしまった。
 ところが、暫(しばら)くして、車の出入りする扉の隙間から先ほどの猫が身をくねらせて庭に入ってきた。
 そして、私の傍(そば)に来てあいさつするように一声「ニャア」と鳴いて、私の目の前に座り込んだ。
 猫と付き合いのなかった私には、まさかの猫の行為に驚いた。
「あなたは飼い猫ですか、地域猫なのですか?」
 答えるはずもない猫に、私は話しかけた。
 毛が生え替わる時期なのか、毛並みが乱れていて汚れてもいるようだ。撫(な)でてやりたい私の気持ちも引いてしまった。私には雌雄の見分けもつかないのだが、大様なようすから雄と察した。
 私が声をかけて、来てくれたのだからと、おやつを取りに家の中に入ろうとしたが『猫がかわいいと思うなら食べものをやらないでください』、という、動物愛護協会の方の切実な訴えが思い出されて、私の足が止まった。
 まして先日、猫を飼っている人の切ない話を聞いたばかりである。
「市で殺処分する数は猫が多いのですって。もっとも、私の家の猫も、いちどに六匹も産むのですからね、貰(もら)い手を探すときはたいへんです。公園や山にそっと捨ててくる人もいるみたいね。野良猫も増えるばかりで殺処分もいたし方ないのでしょうけれど……」
 と、その人は首を振った。
 そして、また、野良猫に避妊手術を受けさせて、少しでも野良猫が殖えないようにと、活動をしている友人の顔が浮かんだ。
「まず、捕まえるのに苦労するのよ」
 と、いう話に驚き、友人のボランティアに感心したことを思い出した。

 以前、動物保護団体の方のビラが郵便受けに入っていたことがあった。それは切実な訴えであり、私たち人間と動物との関わりを考えさせられる機会にもなった。
野良猫が 単純計算で、一匹の猫が一度に5匹、年二回産むと一年後には72匹に殖えるという。さらに、その一年後には5112匹に殖えるという、恐ろしい数字に驚くばかりであった。
「ごめんなさいね、寄ってくれたのに何も上げられなくて。上げると叱られるから……」
 私は、灰黒色の猫に言い訳をして、庭仕事を続けた。
 猫は所在なげに、ベランダの方へ歩いて行き、その上で暫く寝そべっていたが、やはり落ち着かないらしく、帰って行くのであった。
 そして、私の脇を通る際、小さな声で「ニャア」と鳴いた。それが、さよなら、とあいさつをしたふうであり、猫と関わったことのない私には驚きの一声であった。

 いま、世の中は猫ブームなそうだ。かくいう私も猫の存在が気になる一人になった。
 そのきっかけは、知人から、動物愛護センターで制作する2014年のカレンダーの購入協力をお願いされ、手にしたときであった。その代金は、東日本大震災で預かったペットたちの餌(えさ)代の足しにするという。
 2013年の暮れ、カレンダーが届いた。
 カレンダーは、福島県の、津波や放射線に汚染された浜通り地方から、飼い主といっしょに逃れてきた犬、猫の写真だ。
 飼い主は仮設住宅に入居できたが、動物たちの同居は許されず、動物保護センターに収容されたのである。
 その写真には、町名と動物たちの名まえが記されており、多くは猫であった。
 背を丸め、半眼で、しかし眼光鋭く、じっと遠くを見据えている。その姿に、自分たちが置かれている現在の厳しい環境と立場をわきまえ、それに堪えている、という覚悟が見えた。猫がこのように存在感のある表情をするなど、私はすっかり心打たれてしまった。
 まん丸目の、いつもの愛くるしい猫の顔は、そこにはなかった。 

 また気まぐれに、あの灰黒色の猫が「ニャア」とあいさつをしながらやってくるだろうか。