紫陽花の季節
             山内 美恵子

 五月下旬、庭の紫陽花が咲きはじめた。梅雨に入ると紫陽花は日ごと色合いを深め、ひとしお生気を取り戻す。この花ほど季節を感じさせる花はない。雨に打たれて咲く風情は、他の花にはないおもむきがあるからだ。
 梅雨に入って間もなく、夜来からの激しい雨に、雨滴を含んだ道路際の紫陽花が、塀を越えて枝をしならせていた。
 昼近く雨が小降りになる。私は大きな瑠璃(るり)色の花房をかばいつつ、そっと手を添え雨滴を払ってやる。すると、うな垂れていた紫陽花は、跳ね上がるように枝を正し、きりりと花房を立てた。
 毎年梅雨をむかえると、私は時々この作業に追われる。雨の重みでたわんだ紫陽花は、塀を越えて道路にはみ出す。雨が上がると、傘を持て余した下校の小学生たちが、その花房を用捨もなく叩いて行くからだ。
 傷めつけられた紫陽花は、見るも無残な姿で道路に投げ出され踏みつけられる。私は一度ならず見ているので、花が終わると枝を短く切っている。だが、側にバラや柚子の木があるため、日当たりを恃みに枝を伸ばしてしまうのだった。
 以前の私は、格別紫陽花に心を動かされることはなかった。頂戴した花を挿し木で育てているうちに、愛着を覚えるようになる。生長した紫陽花はいつの間にか狭庭を占領。少しでも日が当たるよう、夏椿や山査子、寒椿、月桂樹、山茶花、金木犀等の庭木等を切り大切にしてきた。
 紫陽花を数えてみたら地植えが八本、鉢植えが七本ほどあった。おかげで花の季節は、庭も家のなかも溢れんばかりの紫陽花浄土となる。花のある暮らしは、疲れた身体に活気を与え私を甦らせてくれる。そんな浄土の心地よさが大好きになり、毎年花の季節は朝な夕な眼福を得るのである。
 今では春の桜草と共に、紫陽花はわが家になくてならない花となる。
 桜花と共に紫陽花は日本古来の花だが、昔はあまり人気がなかったようだ。別名「七変化」とも言われているように、その移り気な名前が、昔の人には抵抗を感じさせたのであろうか。それを如実に現わす俳句がある。
   紫陽花やきょうの誠けふの嘘
 正岡子規の句である。紫陽花はやはり七変化が災いしてか、桜花のようには愛でられなかったのがよくわかる。
 確かに、夜々息をひそめ色合いを変えていく風情は、昔の人には理解しがたく薄気味悪かったのであろう。その上、今日のように種類も決して多くはなかった。それも人気がなかった理由の一つにちがいない。
 しかし、今日は多くの人に愛でられ、紫陽花の名所はどこも人出で賑わっている。品種改良の技術が進歩したためか、色も形も多彩でその美しさには目を見張るものがある。花の種類は百種を超えるともいう。
 近年は花房が大きく白い紫陽花をよく見かける。アメリカ原産が多いようだ。淡い緑色から徐々に白く開花する「アナベル」や、円錐形の花房に、柏のような葉が特徴の「カシワバアジサイ」また、クリームホワイトから純白になり、やがてピンク色になる「ピラミットアジサイファントム」等がある。
 これらの花は、数年前散歩道で出合った花である。日ごと花の色を変え、美しさを増していく。特に「ファトム」の涼やかな品のよさと、華やかさに私は魅了されている。
 そんな白い紫陽花に取りつかれた私は、今度は白い花浄土をと、ひそかに胸に秘めている。生きているうちに間に合うとは思えないが、その日を想像しただけでも、うっとうしい梅雨も晴れやかで、仕合わせな気分になるのである。そして、紫陽花の季節が来ると遠い日の一人の少年の姿が、私の心を弾ませるのである。

 その日は、何日も続いた雨が上がり、朝の光のまぶしい朝だった。久々に太陽の光を浴びた紫陽花は、深い海のような色を際立たせていた。
 私は家事が終わると鋏を手に庭におりた。たっぷりと雨滴を含んだ息をのむようなみずみずしさに一瞬、私の手が止まった。切るのをためらいしばし見とれる。
 近くで自転車の音がした。振り向くと隣家の前で停まる。降りたのは髪を短くした小柄な少年だった。軽やかな足どりで玄関へと進み、大きな声をひびかせながら、
「ありがとうございました」
 と、深々とお辞儀をした。そして、玄関先のどんぶりを、荷台にくくり付けられた大きな木箱に入れた。家人は留守だった。二所帯同居で家族が多く、休日の昼食は必ず出前を取るのが習慣だった。
 丼を積み終えた少年は、留守の家に向かって再び大きな声で、「ありがとうございました」と、丁寧に頭を下げた。少年の礼儀正しさと真摯な態度に、新鮮な感動を覚える。清々しさが私の胸に広がり一陣の風を運ぶ。
 少年の横顔を朝日が射していた。紺の作務衣を着た少年の、まだあどけなさの残る顔が印象的だった。中学生のような背丈で、地方から上京したばかりなのか、素朴さが感じられた。しかし、丁寧な作業からは、誠実で実直な人柄が窺われた。
 次の週も少年はやってきた。以前と少しも変わることなく、深々とお辞儀をして丼をさげていった。心の中で惜しみない拍手をおくった。後ろ姿がとても大きく見えた。
 私は少年の前途を祈らずにはいられなかった。住み込みでの板前の修業は、並大抵の苦労ではなかろう。どんな荒波が待っているかもわからない。それを乗り越え立派な料理人なってほしい。私はそっと声援を送った。
 少年の顔にはあどけなさの中にも、意志の強さが窺われた。きりりとした口元と、輝いた目元がそれを現していた。少年なら、どんなことも貪欲に吸収するにちがいない。

 その後私は、当時住んでいた家を離れた。当時三十代であった。少年は現在五十代の半ばになっているはずである。
 五月から始まったテレビドラマ、「天皇の料理番」の主人公秋山篤蔵に、私は少年の姿を重ねて観ている。大正・昭和と宮内省厨司長を務めた実在の人物がモデルである。周りの人に愛されながら、徳蔵の修業の日々は続いている。(五月下旬現在)あの時の少年を見る思いがして、毎週目が離せない。
 少年も主人公、篤蔵のように泰斗(たいと)となり、晴れやかな人生を歩んでいると私は信じて疑わない。
 紫陽花の季節をむかえると、四十年経った今もなお、少年の声が耳によみがえるのである。
 私の祈りは、少年に届いていただろうか。