ある日の日記
               
    高橋 勝
 五月十日(土) 死後の宝
 昨年の末から始まった模擬試験の添削業務もやっと一段落ついたので、昨日はちょっとした用事で馴染みにしているオーディオ店に行ってみた。その折り、店長さんと話をする機会があり、これまで手持ちのオーディオについて考えていたこととは異なる考え方があることに気づき、ああなるほどと思った。
 それは、死後のオーディオ装置のことである。私は、このうえなく愛着を持っているオーディオ装置でも、死んでしまえばただのクズ、単なるガラクタになって残るだけであると思い込んでいた。そこには、その都度欲望に突き動かされ、お金とエネルギーと愛情とを限りなく注ぎ込んで蒐集したオーディオやレコード類であっても、死んでしまえば無意味な存在となって朽ちるか、二束三文で売却されてしまうという悲愴感に囚われた自分が存在していたといっても好い。自分のやってきたことは結局何も救われず、自己の存在を無にしてしまうものと認識していたのである。
 ところがその店長さんは、このことに関して次のように話すのだった。宝の持ち腐れになるのではなく、死んでしまえばそれらの蒐集したオーディオの数々はそれで役割を終えたという。もう壊されようが、二束三文で売買され、誰か新たな持ち主に使われようが、そうしたことは自分の知ったことではないという。もちろん、後世に残して何らかでもお役に立てればそれに越したことはないのであるが、それは儚い希望であり、自分の世界から離れてしまうことに変わりはないという。つまり、死によって宝物も自分から離れ、煙が消え去るようにいっさいは死に絶え、自分の関知することではなくなるという考え方と理解することができるのである。
 そうすると、それまで給料からローンを組んでまで捧げてきたお金や、休みを待って渉猟し続けてきたエネルギーや、よりよい音楽を聴こうと飢え続けていた精神はどうなってしまうのか、といった問題が生起する。これについては次のように考えられよう。捧げて、捧げ尽くして、それによって大きな喜びや幸福感が得られたのであれば、それでよしとするという捉え方である。生きている間に至高の幸せが幾ばくかでも得られたのであれば、それで良いのである。一巻の終わりになるまでに楽しく幸せな思いを抱け、それで満たされると考えることができれば、随分気持ちも楽になる。

 五月十七日(土) 親子の関係
 今朝、風もなく新緑も眩しいので久しぶりに渡良瀬川の土手を散歩した。遠く北方には、日光連山が眺められ、近くにはゴルフ場の芝がよく手入れされている。土手の草も、大部伸びている。前方に高齢のご婦人が二人、話ながら対向して歩いてくるのが眼に入った。過ぎるときにはお互いに挨拶もせず、お二人は見向きもせず話に耽っていた。ただ、行き違いざまに話し声が耳に入ってきた。
「息子さんが三人もいて賑やかでしょうね」
「いいえ、長男とは同居していますが、下の二人も近くに住んでいるんですがね、もうからっきしだめなんですよ。今じゃ、あたしのことなんてぜんぜん構ってくれないんですからね」
「まあ、そんなこと……」
「このあいだも、長男と嫁と孫娘とあたしで一泊の温泉旅行をしてきたんですよ。あたしゃ、嫁がおかあさん、背中を流しましょうって、てっきり言ってくれるものとばっかり思っていたんですよ。ところが嫁は、お先にとかなんとか言って、孫娘と一緒に風呂に行ってしまうんですよ。息子は息子で嫁の言いなりだし、あたしはずっと一人っきりだったんですよ」
 私は歩みを緩め、耳をそばだてて聞き入ってしまった。その後、どのような会話が弾んでいったのか分からない。遠くの方に目を向けていると、今は亡き母親の姿が脳裏の底からぽつんと浮かんだ。
 大正生まれの母は、私が子供のころから一貫した性格だった。学生時代、東京に下宿しているときでも、早朝に電話をかけてよこし、要件をしゃべりまくると、じゃまた、と私が何か話そうとすると、もう受話器は切れているといった人だった。子供への愛情にはどの子にも深いものを持っていたのだが、時として地理的方向性や時間的観念の乏しい、いわば自分の思い入れをそのまま子供達にむき出しにぶつけてしまう、盲目の愛情の持ち主だった。
 だが、子供達からいずれ何かを自分のために求めるといった思惑は微塵もないのは確かである。ただ母流のやり方ではあるが、常に子供達のため、家のために自らを顧みることもなく生き抜いた人だった。