〈随想〉
       ある小学生の作文より
                   高橋 勝

 先日、添削した作文のなかに気になるものがあった。小学6年生の女の子が書いたもので、内容は概ね次のようになる。

 ――科学の発達は、自然の現象や、その仕組み、成り立ちを明かしてくれる。これによって新しいことが知れるのは楽しいが、月はいつまでも遠い存在であってほしいし、虹はいつも自分とともに身近にいてほしい。古代人は、月を見ては涙を流し、虹を見ては胸を高鳴らせていた。確かに、科学の進展によって人間はさまざまな恩恵を受けてきたと言えるけど、私は、事物の仕組みも真理も知りたいとは思わない。物事の正体を何もかも暴いてほしくない。そうやって、人間の夢や想像力を枯らさないでほしい。

 私は、何とコメントをしてよいのか一瞬立ち往生してしまった。そこで、まずはこの作文の本質を検証してみることにした。
 それまで夢や希望をもたらしてくれる対象と思い込んできたものも、学んでみると、その仕組みや実態が知識として分かってしまう。物事を知れば知るほど、想像力が一つひとつ壊され、食い尽くされていくと考えている。想像力の働く隙間がなくなってしまうと、息苦しくなり、やがて窒息し、人間の死に繋がる。だから、自分は人間として、いわば最後に残された想像力を駆使して、この恐怖から鳥のように飛び出したい、そして見知らぬ世界を見知らぬまま、思うがまま飛んでいたい、と考えられよう。
 しかし、物知りになるに応じて、想像する力が貧弱になったり、思考力が衰えたりすることがあるのだろうか、改めて考えると難しい問題に突き当たる。まずは身近なところから振り返るのがよい。
 月に人工衛星が着陸して飛行士が地表に降りたってみると、そこには、真っ暗闇の中に生命の痕跡さえない、岩石の塊しかない現実が暴かれれば、天上界に戻っていく彼のかぐや姫の物語は、単に荒唐無稽の作り物にすぎなくなり、読む価値など全く失せてしまうとでも言えるのだろうか。幼いころ、田舎の実家で、十五夜の暮れ方、ススキの穂とともにお団子をあげて、父と母、それに兄弟などと一緒に縁側に腰掛けて、まん丸のお月様を眺めた情景を思い出すのも、一笑に付されてしまうのだろうか。あるいは、太陽の光が、雨後の雨粒のなかを透過するさいに屈折し、それぞれの色の持つ屈折率によって七色に並ぶ順番が決まっていたり、朝や夕によく見えるのは、屈折している場所が上空にあったりするのが原因だという実態を知ってしまえば、山を跨がって掛かる虹の橋を見ても、小さな自分の夢が膨らんで、もしかして本当にかなうのではないかと勇気づけられることは、もう一切なくなってしまうとでもいうのだろうか。
 否、そんなことは考えるだけ愚かである。そう、確かに、物事の本質や真理、あるいは現実の実態を捉えるのに知性は大いに役立つものである。例えば、学校では今、児童生徒の個性を尊重するという建前で教育を行っているが、自分探しをいつまでやっても捉えどころが無く、結局自分に合った仕事をいつまでも探し続けるだけで、フリーターになっているのが精一杯という、20代、30代の若者がたくさんいる。その一方で、産業社会や行政、教育関係者などは、そうした理念に整合する、就職機会を増やす取り組みをするどころか、短絡的にグローバル化の流れに乗っかり、自らもそうした社会のあり方を受け入れ、推進するのに手を貸すだけで、結果的に若者の仕事の場を減らしているだけではないか。そうした現実を知らせないで、経済的効果しか眼に入らない、横並び意識に捕らわれている現状をどう考えるのか。この例一つをとっても、知性は、現実を確かに知って、柔軟に対応して生きるためにも必要不可欠であることが分かる。だが、それゆえに事物の有り様を知ることに価値を置くだけでは、人が生きるには不十分である。では、その一方で十分条件を満たすには何が必要になるのか。
 人間には、目にはそれとは見えないが、それゆえに価値ある機能があるのを忘れてはならない。そう、人間や社会の尊大な在り方や、偏向した情報や情勢に批判的な目を向け、分析や吟味の手法によって考えたり、自らコトに当たっては記憶を心ゆくまで思い出したり、自然の美しさや人の誠に触れて感動を覚えたりすることのできる、詩的情趣とか物のあわれといった、心、ないし精神の働きがあり得るのである。ここまで考えてきて、私は、コメントとして次のように書いた。

 ――読書や実験や勉強などによって、物事の仕組みを知ってしまうことを恐れなくてもよいでしょう。問題なのは、それですべてを知った気になって、それ以上、想像することやモノを見ること、考えることを止めてしまうことです。自然や現実に存在している物や現象に勇敢に立ち向かい、覚えた言葉や知識に捕らわれず、自分自身の眼で辛抱強く見続けるのです。そうすれば、そこには思いもしなかった、さまざまな形態の、美しさや香りがふくよかに漂っているのがきっと感じられるでしょう。感じるままに感じ、自分なりに受け入れることです。そうして夢や希望を膨らませるのです。これから先、たくさんのことを学び、物事の仕組みや現実を知ることになるでしょう。でも、何も怖がらないで大丈夫です。たとえ物知りと言われる人になっても、今のような詩を感じる心や、探究心さえ失わなければ、何を知っても恐れることなどありません。