晩年の日々
           角 千鶴


 晩年の父と母は、端で見ていても微笑ましいほど、仲が良かった。
 ーー女はでしゃばってはいかん、ひかえておれーーと、いいとおしてきた父だったが、その明治生まれの九州男児も、晩年のころは、どこへ行くにも母を伴い、足の痛む母に、ひとまえも憚らず腕をかしていた。小柄な母は、上背のある父に腕をとってもらって歩くのだが、だれの腕よりもお父さまの腕がいちばん頼りがいがあるといっていた。
 昭和四十二年の末に父は他界したが、この年の二月に、父は円覚寺の白雲庵の中にある墓地を求めた。その下見に行ったとき、父の心には、墓を作るということに、まだ迷いがあった。当時の白雲寺の住職、田原大雄師に、父はこう話しかけている。「親鸞上人は、骨を川に流されたとききますが……」と。これに対し田原師は、「いやあ、あとに残る者のことを考えると、墓はやはりあった方がいいでしょう」と言われた。父はこのことばで、心を決めたそうである。

 三月の末に、父は久しぶりで海外に旅した。
 二か月の予定であった。アメリカ南部のウイリアムスパーグで開かれるダートマス会議(新聞人会議)に出席するためだったが、今一度、自分の目でヨーロッパを見ておきたい、という気持ちもあったらしい。
 旅立ちの朝、春浅い茅ヶ崎の庭を、ひとしきり父と散策したとき、私は父に、
「春を追っての旅で、今年はお父様、次々に花が楽しめてよろしいわね」
 と、言うと、
「いいや、ここの庭の春を存分に見られないのが心残りだよ」
 と、いかにも残念そうに答えた。
 ーー来年だって、再来年だって見られるでしょうーー と、言おうとしたが、父の声の調子が沈んでいるのに引き込まれて、私は黙っていた。
 ヨーロッパからの短い便りには、ーー時代がすっかり僕たちから君たち(私の夫のこと)に移ったのを感じるーーと書かれていた。
 旅立ちのときよりも、元気そうにして帰国した父は、秋のはじめになると、母を伴って九州へ旅行した。父方の祖母の五十回忌法要のためだった。帰路、阿蘇山に遊んだとき、手違いで車までの道をかなり歩かなければならないというハプニングがあったそうだ。足の痛みをこらえて、山道を歩いたごほうびだといって、お父様がこれを買ってくださったのよと、母はうすいベージュを基調とした品のよい博多帯を、嬉しそうに見せてくれた。
 社を退いてから、すでに四年がたっていたが、執筆の仕事は続いていた。そのころは、沖縄の返還が問題になっていたときで、核ぬき返還を主張する父は、どんなに紙面で、「核ぬき」を提言しても、一向にらちがあかないことで悩んでいた。
 母はそんな父のそばにいて、
「あなた、そんなに心配なさると、ご自分の命をちぢめますから」
 と、はらはらして言うのだった。
 とうとう父は、当時の総理佐藤栄作氏に、直接手紙を書いた。向こうからは電話で、ーーご主旨はよく分かりましたーーという返事があったそうだ。
 それから間もなく十一月一日、父は倒れた。
 床に伏すようになってからも、事態が変わらないことに心を痛め、ーー(佐藤さんは)分かったと言ったのになあーーと、弱々しくなった声で、寂しそうに私につぶやいたことがあったが、その後は二度と、そのことを口にすることはなかった。
 病状は楽観できず、お医者さまからは、「指一本動かしてもいけません。お話してもいけません」と申し渡されていたが、倒れた当座はまだ元気で、お目付け役の私が目を離すと、父はすぐ布団から手を出したり、おしゃべりをしようとした。
 ある日、父は母を指さしてから私に言った。
「ぼくなしじゃ、このひとは一日だって生きてゆけん。ぼくが死んだら、三日目に、こんなふうになって死んじゃうよ」
 こんなふうに、というところで、両手を布団から出して、ぐにゃんとなった格好をしていたずらっぽく笑ってみせた。
 その父は、一か月余りの闘病生活の間に三たび肺炎を併発し、十二月四日、六十七年間の生涯を閉じた。
 私は、夫や子どものことも瞬時忘れ、時間が止まってしまったと思ったあの父の死の瞬間から、しばらくの間は、ただひたすら死を急いだ父がうらめしく、「なぜ、なぜ」と、心の中で叫び続けた。
 時がたつにつれ、父の一生を静かに振りかえることができるようになると、一人の人間の歴史が、終わるべくして終わったのであり、どんな家族の愛情も、父をひきとめえなかったのだと考えられるようになった。
 父はかつて『死と生』という文の中で、至道無難禅師というお坊さんの歌を引いている。
 生きながら、死人となりてなり果てて
  思ひのままにするわざぞよき
 父の晩年、ことに、静かな死を迎える最後の一年の日々を振りかえることで、父がこの歌を引用して言おうとしていたことが、おぼろげながら分かりかけてきている。