お弁当            
             羽田竹美

 私は七人兄弟であったから中学生のとき、朝の台所にはお弁当が六つ並んでいた。弟は小学生であったので給食だった。
 兄たちの大きなお弁当箱、姉たちや私の花柄のお弁当箱に毎日お弁当作りをする母は、さぞ大変だっただろう。おかずは皆同じであったから、その日によって好きなものも好きでないものも入っている。好きなものが入っているときには、お弁当の時間が待ち遠しかった。
 私の好きなお弁当はのり玉弁であった。ご飯の間に海苔を敷き、ご飯の上にも海苔を置き、その上にきれいな黄色い煎り卵を敷き詰め、端に彩りよく緑や赤い野菜が入っていた。菜の花畑のようなそのお弁当を目で楽しみ、味で楽しみ満足であった。が、兄たちにはそれが物足りないと不評であったらしい。上の兄は鮭弁当が好み、中の兄は肉弁当が好みだったという。下の兄はご飯がぎゅうぎゅう詰まっていれば何でもよかったらしいと母が笑っていた。
 受験のときには必ずカツ弁当を作ってくれたのも母の愛情の表れであったのだろう。そんなお弁当を持たせてくれたのに受験に失敗したり成功したり様々な子どもたちだった。
 私の股関節が壊れ、手術のため入院した十五歳のとき、母の煎り卵が食べたくて付き添いさんに頼んだ。出来てきたのは汚い茶色をしたものであった。
「こんなのいやー! 煎り卵じゃない!」
 私は食べなかった。付き添いさんはかなりうろたえていた。後で母に話していたのを聞いてわかったのだが、隠し味に醤油を使ったのだという。群馬の山奥で育った付き添いさんの郷土料理だったのだ。煎り卵ひとつとっても様々あるのだと大いに勉強させられた。付き添いさんとはそれからすっかり打ち解けてかわいがってもらった。
 大学を卒業してから、東大病院神経内科医局に研究助手として就職した。研修医の先生方の中に紅一点であった。若い先生方は皆さんお弁当を注文する。そのお世話も私の仕事であった。十二、三人の小さな医局は家庭的で、あたたかなところであった。
 午後二時近くになって、外来や研究室から引き上げてくる先生たちと一緒に、私もお弁当を開く。母が彩りよく作ってくれたお弁当に先生たちは注目する。
「いいなぁ、ダンチャンのお弁当おいしそうだなぁ」
 私はダンボールの箱入り娘というダンチャンの愛称で皆さんから可愛がられていた。
 お弁当の中ではのりたま弁が先生方に好評であった。途中で入ってきて全部見られなかった先生は、
「ダンチャンのお弁当、今日は見られなくて残念だったなぁ」
 と言った。
 母にそれを話すと、母はうれしそうにますます張り切って見た目においしそうなお弁当を作ってくれた。
 結婚して夫にその話を何回もしていたようだ。母ののりたま弁の話は夫の心にしっかりとインプットされていた。
 私は妊娠すると悪阻(つわり)がひどい。何も受けつけず、ただ嘔吐するだけであった。すっかり衰弱した私を夫は近くの産婦人科病院に連れて行った。先生はあまりのひどさに驚いてすぐ入院するよう言われた。
「こんなにひどくなるまでなんでほって置いたのですか! 悪阻で死ぬ人もいるのですよ」
 夫は先生から叱られていた。
 入院して点滴や注射をしてもなかなかよくならなかった。苦しい苦しい毎日。でも家の近くだったので、夫が度々見舞いにきてくれたのが、唯一の喜びであった。
 ある夕方のそろそろ食事が出る時刻であった。夫が五歳になる長男を連れてやってきた。
「お母さん、きょうは一緒に食べようね」
 長男が差し出したのはお弁当箱だった。開けてみると、私は一瞬息を飲んだ。なんと、母のあののり弁ではないか。
「お父さんとぼくで作ったんだよ」
 長男の小さなお弁当箱にも、のり玉が入っている。煎り卵に少し焦げ目が入ってきれいな黄色ではなかったが、夫と長男が私のために一生懸命作ってくれたのりたま弁はあの母のお弁当に匹敵するほどであった。いや、それ以上に夫のやさしさがプラスされておいしいものであった。
 あまり食欲がなかった私だったのに、このときは不思議にも全部食べてしまった。うれしくて涙のしょっぱさも味わいながら夢中で食べている私を、夫は微笑みながら見つめていた。
 のり玉弁の思い出は母と夫の愛情の温かさで私の心を包み込んでくれる。