牧水の短歌を歌う 

              石川のり子

 短歌をいっしょに学んでいる友人から、『牧水 手賀沼に遊びて』というコンサートに誘われた。
 若山牧水といえば有名な歌人で、高校時代には教科書に載っていた短歌を暗記させられた。旅が好きで、酒が好きで、その酒のために43歳の若さで亡くなった。その牧水が手賀沼でどんな歌を詠んだのだろうかと、興味がわいた。私は友人に、
「ぜひ、ご一緒させてください」
 と、二つ返事で承諾した。
 
会場は常磐線の柏駅から約5分と聞いていたが、すでに夕闇が迫り、初めての会場は遠く感じられた。少し汗ばみながら、午後7時開演の10分ほど前に、2階の白い座席に並んで座った。どんなコンサートなのか、予備知識が何もないまま出かけたのだが、すでに300人ほどの会場は、満席状態であった。平日にもかかわらず、最前列に、柏市と印西市の市長が座っておられた。
 開演を待っている間に、渡されたパンフレットを見ると、主催は「手賀沼を歌う会」とある。この会は20数年前、手賀沼が汚染ワーストワンだったころ、浄化を呼び掛けるオペラを上演した。その作曲者が仙道作三氏で、このたびも短歌を作曲された。

プログラムは2部に分かれていて、1部は、山本鉱太郎氏の「漂泊の詩人 若山牧水」と銘打っての特別公演である。氏は著名な旅行作家で、江戸時代に利根町に住んでいた医師・赤松宗旦の著した『利根川図志』をたどって、『新利根川図志』上下二冊を書いた。私が引っ越してきて初めて読んだ本である。推定すると、80歳は優に過ぎておられるのに、若々しく声にも張りがあった。彼もかつて『手賀沼讃歌』のオペラで脚本を書かれたので、仙道氏とは同士のように見受けられた。
 若山牧水は宮崎県日向市生まれで、北原白秋と親交があり、尾上柴舟を師事し、文学活動を始める。このころ恋人園田小枝子との恋愛は有名だったそうで、悲恋の歌が多いという。よく口ずさみ悲しい気持ちにさせられたのはすべて悲恋の歌だった。

幾山河越え去り行ば寂しさの終てなん国ぞ今日も旅ゆく

白鳥は哀しからずや空の青海の青にも染まずただよふ

 牧水は、喜志子夫人と結婚し、子供も儲けたが、今でいうアルコール中毒だったようで、毎日一升酒を昼間から飲むこともあった。晩年の牧水は静岡県沼津市に住んだ。韓国への旅行中に体調を崩し、帰国。急性腸胃炎兼肝臓硬変症で昭和3年永眠する。
 同時期に尾上柴舟の門人になった前田夕暮は69歳まで生きていたことを考えれば、ずいぶん死に急いだ。しかし、生前7000首もの短歌を詠み、それを平成の世になって曲をつけて歌ってくれる人々がいるのだから、立派な文学者である。
 
 今年は若山牧水生誕130年であり、手賀沼に来て90年にあたるらしい。手賀沼は大利根川の蛇行によって生まれた三日月型の沼で、長い年月が経つうちに瓜型になり、中ほどに橋が架かり、瓢箪の形になったという。 
 私は、3年ほど前、常磐線の我孫子駅で下車して、寒い季節だったが、手賀沼のほとりを友人と歩いた。遊歩道がきれいに整備された沼には、ボートが係留されていて、カイツブリやカモ、ハクチョウなどの水鳥が気持ち良さそうに泳いでいた。
 人の手の加わらない大正時代には、沼の神秘さに魅かれて文人や芸術家が多く住んだという。嘉納治五郎、柳宗悦、バーナード・リーチ、志賀直哉、武者小路実篤、楚人冠(杉村広太郎)、中勘助などだが、若山牧水の名前はなかった。
 牧水はどういう経緯から手賀沼で遊び、短歌を詠んだのだろうか。
 疑問は仙道氏にもあったようで、いろいろ調べて書いておられた。この沼の近くの印西に、牧水の発行している雑誌『創作』の同人が幾人も住んでおられて、その中の一人鈴木菱花氏が20代で亡くなった。牧水は彼の墓参に喜志子夫人と訪れ、同人の腰川一麿氏にお世話になったとのことだった。
 仙道氏は、牧水の短歌16首と、亡くなった鈴木氏の短歌を3首、それに舟で手賀沼を遊覧させてくれた腰川氏の短歌を1首と、合わせて20首に曲をつけられた。これを印西市在住のバリトン歌手の砂田直規氏が朗々と歌い上げた。目を閉じて聴き入っていると、かつて訪れた広々とした手賀沼を水鳥が泳いでいる様が浮かんできた。
 舞台上には左手にグランドピアノ、右手にススキとヒマワリが大ぶりな花瓶にたっぷり生けられてあり、中央のスクリーンには沼の写真と短歌が映し出された。牧水夫妻が創作の同人とボートで手賀沼を遊覧する写真もあった。

 はるけくてえわかざりけり沼のうへや近づき来る鷺にしありける

 この短歌は宿泊した腰川家に残されている牧水の歌だそうだが、コンサートの最後に全員で合唱した。
 手賀沼の浄化を風化させないために、作曲者の願いが込められていた。