文 庫 本
                角 千鶴


 引越しというほど大袈裟(げさ)なものではなかったが、六年近く単身赴任していた夫と、三年あまりの地方勤務を終えた長男が、相前後して東京へ戻ってきた。もともと広くない我が家はパンク状態である。半年ほどかけて荷物整理に悪戦苦闘した結果、平成二年の暮れも押し詰まって、やっともう一息というところまで片づいた。
 最後に追い出されて、はみ出してしまったのが本類である。相当量の文庫本が行き場をなくしてしまった。古いのは昭和十三年度版あたりから戦後のものまで、文学から社会科学、自然科学など帯で色分けされた岩波文庫を中心に河出文庫、角川文庫などとりどりである。
 夫と私の双方の親の代からのものということもあったし、いつか子どもたちが手にすることもあろうかと、たいせつにしてきた。しかし、子どもたちは旧仮名づかいの本を読もうとはしなかった。彼らの部屋には、それぞれが求めた今風の色とりどりのカバーのかかった文庫本がきれいに並んでいる。この際、思い切って処分してしまおうか。だれかが先に立って裁断をくださないと、こういうことはきまらない。
 私は、「捨てることにしたわ」と、さりげなく夫に話しかけた。
「何のこと?」
 言いかけて振り向いた夫は、ショッピング・バッグ五袋に詰め込んだ文庫本に目を止めた。
「だめだよ、とっておきなさい」
夫が一瞬でもためらったり、考える様子を見せたら、私はこの機会に思い切りましょうよと、強く出たにちがいない。
「やっぱりとっておくの? でも、いったいどこへ入れるおつもり?」
 いささかいじわるっぽく言って、私は階下(した)へ運ぶつもりだった袋詰めの本たちをひきずるようにして廊下の端にならべ始めた。
 文庫本といえば、私には一冊の忘れられない岩波文庫がある。ヨハンナ・スピリ著、野上弥生子訳の『アルプスの山の娘』がそれである。
 母と二人、信州の飯田市へ疎開していた戦時中、スイスに滞在中の父から届けられたものである。
 ヨーロッパから日本の本が送られて来たのを不思議に思ったが、たしか野上さんの弟君がそのころスイスにおられ、そちらから父が頂いたのだということを、あとから聞いたように記憶している。それがどのような経由で信州の山奥までたどりついたか覚えていないが、当時、あらゆる方法を使って私たちと交信を続けることに努力していた父は、時には軍属の方に手紙や小さな物を託すこともあったから、そのルートだったのかもしれない。
 本が届いたとき、私は小学校四年生だった。かぶせてあるパラフィン紙をはずし、表紙の感触を指で楽しむと、おとなの仲間入りをした気分になった。
 茶色の小包の紙を丁寧にたたみ終えた母は、
「読んであげるわ」
 と、私の手から本を取りあげ、声を出して読みはじめた。
 私たち母子(おやこ)が住んでいた借家の二階の北側の窓からは、晴れた日、南アルプス連峰がくっきりと見えた。心地よくひびいてくる母の抑揚のある朗読に耳を傾けながら、私は見慣れた景色に、父からの絵はがきの赤い屋根の点在するスイスの山の風景を重ねていた。
野上さんは、一つ一つのことばをほんとうにたいせつに翻訳されていた。山羊(やぎ)の乳を「カップ」ではなく「お椀」にそそぐと訳しておられたが、しぼりたての乳の香とぬくもりが伝わってくるようで、私はこの「椀」ということばのひびきが好きだった。
 毎日、学校から帰ると、おやつの煮干しやお漬物を食べている私のかたわらで、母は続きを読んでくれた。私は、「学校へ行っている間に、自分だけ先に読んでしまわないでね」と、念を押したものである。
 寂しい疎開地での生活の中にハイジの世界がはいり込み、こたつの中でいただく二人きりの食事に、しばらくの間、ペーテルやクララ、時にはロッテンマイヤーまでがたびたび招待された。
 母と子で同じ本を読み、共通の世界をもった楽しさは、年を経ても話題にのぼるほどの懐かしさがあった。
 しかし、私がメルヘンの世界に浸っているあいだ、母はひょっとしてあの本に違ったものを求めていたのかもしれない、と思いあたるようになったのは、ごく最近のことである。
「アルプスの山の娘」に熱をあげていたのは私より母だったかもしれない。あのとき、母はスイスを舞台とした物語の行間に、離れて暮らす夫の生活をなんとかしてかいま見ようとしたのではなかろうか。母が逝って七年、今はたしかめてみるすべもないのだがー。

 はみだした文庫本は結局、数年間ためていた専門誌を夫が処分することで、住処(か)を得ることになった。
「世に出た本は読者から相当の評価を得たのち、初めて文庫本になる。岩波文庫になるということは、たいへんなことなのだよ」
 ずっと昔、父からきいたことばである。そういう時代に生まれた文庫本は、やはりとっておく価値があるのかもしれない。
       『ゆうすげの詩』より