〈評論〉
   文士と政治活動
         ― 三島由紀夫の場合
                高橋 勝

 10月初旬の『産経新聞』のコラムに、「『からっぽ』な時代での孤独」(先崎彰容)と題されたエッセイが掲載されていた。これは、「『戦後日本』を診る――思想家の言葉」と題する、著者による月1回シリーズの記事であり、今回は、上記のテーマのもとに三島由紀夫が取り上げられている。
 いわゆる「三島事件」のあった直前、昭和45年7月7日、三島は、サンケイ新聞夕刊に、「果たし得ていない約束 ― 私のなかの二十五年」というコラムを掲載した。今回の記事は、このコラムに基づいて書かれたものであり、分量にして原稿用紙四枚ほどになる。そこから、三島の生きざまが改めて鮮明に浮かび上がってくるが、そのなかから当時全盛であった学生運動との関わりについて一部抜き出してみたい。
 敗戦後の日本は、アメリカの言いなりになるだけでひたすら物質的豊かさを追い求め、高度経済成長を成し遂げた。だがその一方で、時代精神は空虚と偽善、閉塞感に陥っていった。昭和43年の「全共闘運動」と呼ばれる大学生たちの起こした反乱の原因には、この戦後=民主主義への違和感があった。三島の場合は、この「からっぽ」な社会を否定する気分は学生と同じだが、それはあくまで日本の文化を守るために戦後を否定しているのであって、学生のように破壊と否定、革命だけを夢想しているのではないと述べ、学生たちとの違いを明確にしている。
 また、三島の天皇観について、三島は、戦後の象徴性天皇、及び明治立憲制での天皇の在り方にも疑問を抱き、天皇は政治ではなく文化を担う存在としてのみあるべきと捉えていたと述べる。ところが、戦後のふやけきった日本を停止し、文化の咲き誇る「日本」を取り戻すには、こうした天皇こそ必要であるのに、全共闘の学生は、三島のこの言葉=天皇を受け入れることはしなかった。この点からも、三島と学生は「半分」しか理解できないのだと続けている。
 なお、ここで三島の言う「日本の文化を守る」という場合の日本の文化には、特に何を指すか明らかにしていないために、広く解釈できると考えられる。それまでの三島の著作に限ってみると、少なくとも『源氏物語』に素材を取った『葵上』(「近代能楽集」)や、『古今集』を主に論じた未完の『日本文学小史』、あるいは「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」の一句で名高い、山本常朝の「葉隠」を解釈した『葉隠入門』などが念頭にあったのは疑う余地がない。また、長編小説『春の雪』では、侯爵家の若者「清顕」への愛情を受け入れることと、社会的掟を生きねばならぬ板挟みになり、出家してしまう令嬢「聡子」の生き方に、「匂宮」と「薫」という性格の相反する貴公子への愛情を同時に受け入れざるを得ないために出家してしまう「浮舟」(『源氏物語』)の姿が、二重映しになっているとも解釈できる。このように、三島にとっての日本の文化とは、モノや形にこそ価値を見出す唯物観とは真逆の、そうした存在の背後にあって、表立ってはそれとは見えないが、否、それゆえにこそ確かに日本人の深い精神層に今もなお生き続けている「物のあわれ」や、伝統的な武士道に見られる「無私の精神」などを理想としたものであったに違いない。
 ところが、晩年の三島は、それまでに数多のベストセラー作品を世に送り出し、戦後日本を代表する作家になる一方で、全共闘学生との対話集会への参加や、自衛隊への体験入隊、民兵集団「楯の会」の結成など、次第に政治色を強め、ついに昭和45年11月25日に、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で幾人かの志を同じくする青年とともに「天皇陛下万歳」と唱え、自決するに到るのである。
 以上の三島の思想と行動を外側から概観すると、彼は戦後日本の時代状況と自らの理想とするものが回復不能なまでに乖離してしまった現状を深く嘆き、その絶望を動機として、文士としての枠を乗り越え、政治活動に入って行ったと推測できる。なるほど、彼のとった行動は特殊なものと言えば言えるだろうが、ここには、文士(芸術家)と政治活動との関係はいかにあるべきか、といった普遍的な問題が提起できると考えられる。
 確かに、国家の政治的在り方や進むべき方向性に対して、その本質を暴いたり、批判したり、あるいは自らの思想や理想などを語ったりすることは、文芸作品において可能であるし、それによって反発を湧き起こすにせよ、共感を増長させるにせよ、多くの個別的読者に間接的な影響を与えることができる。あるいは、現実に外に出ていって、対話や講演を重ねたり、示威運動を展開したりして、一部の学生や少数のインテリ層、さらにマスコミに乗って多数の国民に何らかの波紋を巻き起こすことは可能である。
 だが、一介の文士が政治活動にのめり込んでも、現実的な見返りや満足の得られる地点まで到達することができるのだろうか。一般的に考えれば、後に残るのは、憎しみと嫌悪、怒りと侮蔑、あるいは徒労感や絶望だけであり、活動に深入りすればするほどその度合いを増し、そうした感情や不信の念をぶつけるところや拠り所が実際にはどこにも無いのに気づき、救いようもないまま自らを閉塞状態に追い込んで行くだけではないのか。なぜなら、そこには個人の力量をはるかに超える政治集団や、外国も含め、そうした人たちを取り巻くさまざまな圧力団体が存在して、現実の政治的方向性を左右しているからである。
 もとより文士と言っても、一国民として現実の様相に対しいかに捉えるかは自身の自由である。ただそこで、どこまでも物書きであろうとするならば、物書きの枠に踏みとどまるべきという選択肢も存在するはずだ。そうすることで、彼にはその分、自らのエネルギーと時間を創作に打ち込めるし、文化的な、また精神的見返りの期待できる濃密な時間も生きられる。幾つになっても新たな問題や視点を見出して、その後の展開に永続的に繋げることだってできるのではないか。
 ところで、かつて小林秀雄は、政治家と文学者の違いについて、ある講演(「ゴッホについて」新潮社CD版)で語ったことがある。以下の引用は、少し長いが、このCDを聴きとった一部である。
「(略)今は、政治というものが世の中に大きな力を持ってきた。だから、大衆の力、民衆の力というものが非常に強くなってきた時代だ。それだから、個性、個性と言いながら、大衆的に行動したり、大衆的にものを言ったり、主張したり、考えたりすることが非常に大事に思われてきている。だけど、集団というものと個人というものは絶対違うものである。これは、いつまで経っても違うものであると私は思っている。
(略)集団的に考えることは付和雷同することだ。イデオロギーを持つことだ。付和雷同することが集団的に考えることだ。だから集団的に考えるなんてことはあり得ないことだ。人間には永遠にあり得ないと思っている。そこまで考えれば、個性という問題は、自分で正しく努力して考えることは、俺だけだと、俺一人の責任であって、俺一人の努力を待たなければダメなのだと言うことを本当に悟らないと。だから、つまり、自己と闘わないと、思想など生まれるわけなどないと。
 だから政治というものは、今は政治がつまらないものだなどと言う人は誰もいない。我々の生活にこんなに影響している政治を軽んずる人はないが、政治というものには一つの限度がある。政治というものは、簡単に言えば、決して自己と闘わないものなのだ。敵と闘うものだ。(略)自分と闘うことは政治家には必要ないものなのだ。本当に偉い人はどうなのか知らないが、今の政治家にはそんな人なんて居はしない。だから、こういうことを本当にやっているのは文学者なのだ。芸術家なのだ。そして、本当の思想家なのだ。
 こういうことは、自分で考えるということは、自分の個性と闘うことだ。(略)それと闘って勝たなければ本当の普遍はないのだ。そうでなければ、それは人から聞いたイデオロギーで、だから本当の自分の思想を自分で作るということは、自分の個性と闘うことだ。だからこういうことを僕は、文士はやっていいと思う。だから僕は、文学を判断する価値は、だいたい簡単にそこで決めている。この人は、自分と戯れているか、それとも自己と闘っているか、そこで僕は文学というものの価値を判断している。(略)」
 なお、小林自身は、ここで語っているように、生前、決して政治的な言動に踏み出さず、文士としての生涯を全うした。しかし、三島の晩年の政治に関わる生きざまをズームアップするだけで、小林のこうした発言によって一義的に決めつけるのは乱暴すぎるであろうし、当を得ていないと言えよう。実際、三島自身は、当初より極めて個性的な生きざまを貫き通した人である。ただここでは、小林の、以上の言葉を踏まえたうえで、なおも三島の政治色を強めていった真意を探るために、彼の内面に思いを致すことが何にもまして肝要ではないかと思う。
 三島事件の真相や背景については、様々な憶測が語られてきた。そのひとつに、それまでに自らの創作した作品を後世に印象づけるためにあのような行動をとったという考え方がある。なるほど、彼の中心にはいつも日本文化というものが据えられていたことを考えれば、そうした文化の本質を深く身につけた自らの存在を、作品として永遠に国民の中に生き続けさせたいと思っていたのかもしれない。近代文学作品全般に限っても、発表当時は人気作家であっても、その後永続的に読み継がれてきた例は数少ないのではないか。その意味から考えると、あの一連の事件は衝撃的なものであるため、良かれ悪しかれ読者に多大なインパクトを与えるものであった。それゆえに、その繋がりにおいて、作品の方も後世、長く生き続けられると考えることは、徒に荒唐無稽なことだなどとは言えないだろう。
 しかし、たとえそうであったとしても、これは結果論としてそう捉えているのであって、文士としての、内面からのアプローチの視点が欠けているのではないか。彼が文士の立場から政治活動に入って行く際には、すでにそこにはある覚悟が胸中にあったと思えてならない。たしかに小林が述べているような文士特有の役割について、それはそうであると、三島にはすでに分かっていたのかもしれない。しかし、たとえそうであっても、それ以上に戦後日本の屈辱的状況のなかで、彼はただ一人、孤独の中で生きるのに耐えられなかったのである。これは三島の私的問題と言うよりも、日本の伝統文化を一心に背負っていたがゆえに、その誇りと歴史的永続性を願うひたすらな思いが、彼を行動に駆り立てさせていったと思えてならない。