父の言葉
        角 千鶴


 茅ヶ崎へ越してからのある日のこと、玄関で私を迎えてくれた父は、いつになくそわそわと私を書斎へと促しました。
「ぼくの恋人に紹介しよう」
 そういって父は私の顔をみました。父に従って入った部屋には、一枚の婦人の肖像画がかけてありました。それは父の母、つまり私の祖母の肖像画でした。私は、父が十九歳のとき亡くなったという祖母についてはなにも知りません。けれども残された、たった一葉の写真をもとに、池辺一郎氏に頼んでかいていただいたというその絵は、祖母を知らぬ私にさえ、そうと一目でわかるほど親しみを感じさせる父の母の姿でした。父はその絵のできばえにたいへん満足している様子で、幼い子どものように、にこにこしておりました。
 たくさん書き残した父の文章の中に、祖母について語ったものは、一つか二つしかありません。父が、祖母を、それは愛し、大切にし、亡き後はいつも机上に写真を置いて勉強していたということは、幼い時しばしば母や伯母からきかされたことでありました。 
 しかし、父の口からはあまりきいたことはありません。ごくたまにぽつりぽつりと「おふくろ」の思い出を語ってくれることがありましたが、それはまるでだいじな宝物をほんの少しだけ分けてくれるというような感じでした。 
 長いこと、語ることも書くこともせず、五十年が経った今、絵にするほど大切な母、父の心を占めていた母親というものの存在の大きさに考えさせられたことでした。
「おまえは、いつでも愛情をもって子供を育てておるか?」
 ある日、突然、父は私にたずねました。初めてもつ赤ん坊のかわいさにただ夢中で過ごしていたそのときの私には、咄嗟(とっさ)にはその言葉のもつ意味がわかりかねました。
「子どもは両親に愛されることを感じているかぎり、間違いなく立派に育つものだよ。おふくろさん、一つしっかりたのみます」
 そうも申しました。いつまでも私を娘っ子のように扱い、冗談を飛ばしていた父は、あまり私に改まった話をしたことがありませんでした。それだけに、今となっては、こうした時折のことばは、本当に大切なものとなりました。いくつになっても子どものことを心配するのは、世の親の常なのかもしれませんが、父は母親としての私のことを、ことさら心配していたようでした。
 赤ん坊にミルクを飲ませながら、
「早く何でも食べられるようにならないかしら。そしたら、いろんな御馳走をこしらえるのだけど」
 と言いました時、父はひとこと、
「ほんとうか」
 と言い、その大きな目で私をじっとみつめました。
 父の日記のところどころに、孫たちのことが書かれていますが、読んでみますと、私が長男を育てるのを、絶えずはらはらしてみていたのが感じられます。それでも、昨春の欧米旅行の際に、機上でかかれた日記には、「小学生になった彼が立派に成長し、一人前の格好をして見送りに来た」と、うれしそうに書かれてあり、ほっとしました。
 昨秋、床に伏すようになってから、父はひげののび具合をみるのだといって、いつも手鏡を手元においていました。亡くなる数日前のことだったでしょうか、私はその鏡に写った自分の顔の丸さにわれながら感心し、ほんの何気なく、
「お父様もお母様も丸顔じゃないのに、私はどうしてこんなにまんまるい顔をしているのかしら」
 と、たあいもないことをつぶやきました。すると父は、
「そうじゃない、お母さんの顔は長い間の磨きがかかってそうなったのだよ」
 と静かに申しました。おりがあったら言っておきたいと思っていたことばだったのではないかと思います。
 女として、母親として、私が間違いなく成長していくようにと絶えず見守っていてくれた父は、最後にそのお手本を私の手に委ねて逝きました。
 残された父の日記の私たち兄妹にあてたことばの中に、
「母をくれぐれも大切にすること」
 とかかれ、消して、
「大切にしてくれること」
 と、なおしてありました。
 仕事に神経を磨り減らしていた父に、呼吸を合わせ 生活を取り仕切り、子どもを育てることのみに専念してきた母の半生を、時には気の毒に思ったこともありましたが、今こうして父の心からの賛辞を受ける母は、本当に幸せだと思います。母に対する父の心に触れるにつけ、父が理想とし、かつ私に期待した女としての生き方について、今一度考えてみなければ、と思うのです。
    (『回想笠信太郎』所載)