ちょっとした冒険            
               石川のり子

 三時過ぎ、改札口で待っていると、数人の下車客の後から野球帽をかぶった少年が歩いてきた。ケンちゃんである。私が右手を振って合図を送ると、日焼けした顔に、安堵の笑いが浮かんだ。
「いらっしゃい。時間どおりに到着してよかったわ」
 黄色の半袖シャツにベージュの短パン、背には紺の小さなリュック、私服を着ている姿は中学生には見えない。娘が一人旅を案じる気持ちも分かる。私はケンちゃんの肩に手をかけて促した。
「ママが心配しているから、すぐメールしてね」
 うなずくと、ポッケから携帯をとり出し、数秒で終わらせた。
「今頃、モモはどうしているかな」
 犬が大好きなケンちゃんは、いつも真っ先に尋ねるのはモモのことである。
「車酔いするから留守番よ」
「オレも電車の中でゲームをやっていたら、ちょっと気分が悪くなったよ。すぐやめたけどね」
「おなかが空いていたんじゃないの?」 
「いや、昼はママが用意しておいたご飯と肉をチンして食ったよ。でも、欲しい物があるからスーパーには寄ってね」
「オーケー。ではスーパー経由で出発しまあす」
 ちょっと生意気になったケンちゃんを見ていると、元気がわいてくる。
 
 一昨夜、ケンちゃんは何を思ったか、前触れもなく電話をかけてきた。
「火曜日の部活の練習が終わったら、おばあちゃんの所に行っていい? 翌日は部活が休みだから」
「構わないけど、ママと一緒なの?」
「ママは仕事があるから、オレ一人で行くよ」
 金融機関に勤めている娘に確認すると、八月は順番に休暇をとっているので、よほどの事情がないかぎり急には休めないとのこと。ケンには、おばあちゃんの都合を聞いてからと言ったので、電話をかけたのだと思う。東京の郊外から電車で二時間ほどだから一人旅とは言えないけど、二回乗り換えがある。電車の中でよく眠っているので、乗り過ごすことが心配だという。
「男の子だから、冒険させてみるのもいいと思うけど、本人は何と言っているの?」
「中学生になって電車通学をしているのに、ママは心配ばかりしてと、すっかり行く気になっているの」
「お兄ちゃんが留守だから、一人の留守番が寂しいのかもね。引き受けたわ」
 こうして、十二歳の孫は、一泊の予定でわが家にやってきた。約束どおり北千住駅で常磐線に乗り換えるときに、電話をかけてきた。わが家から二十分ほどかかるので、連絡を受けてから家を出ると、ちょうど良いのだ。

 途中でいつものスーパーに寄った。小さいころは自由に買えるのは百円分だけで、それでもガムやラムネやアメなどを計算しながら買っていた。高学年になってからは兄を真似て金額の張るものを買い、細かくは計算しないで、夕食の買い物カゴに入れるようになった。
「ねえ、おばあちゃん、今回は三百円分買っていい?」
「えっ?」ちょっと驚いた振りをして、
「しかたないわね。ジュースもアイスもぶどうも、好きな物は買ってあるけど」
 と言ったが、小さな身体で夏休み中も部活のアメリカンフットボールの練習をしているのだから、多少の我儘は許してやろうと、ついうなずいた。調子に乗ったケンちゃんは、「帰るときはお小遣いもね」と付け加えた。娘には、「駄目なものは駄目とはっきり言ってね」と言われているが、多分、孫に甘い母親の性格は見抜いているだろう。
「早くモモに会いたいなあ。お菓子を食べながら、モモと一緒に録画したのを見たいから、どこにも寄らないでね」
 動物の飼えないマンションだから、モモはケンちゃんの癒しになっているようだ。
 ケンちゃんが家に着くと、モモは大喜びでまとわりついた。まだ暑いのに、リードを付けて散歩に出かけた。手提げ袋にはボールが入れてある。芝生に着いて、ケンちゃんは手加減をしないでボールを投げるので、3.5キロのモモは疲れきって腹ばいになったまま動かなくなったらしい。「暑い!暑い!」と言いながら真っ赤な顔でモモを抱いて帰ってきた。
 クーラーをつけて、ケンちゃんがソファに寝転がってテレビを見ていると、横でモモも同じように寝そべっている。ときどきちょっかいを出す相手だが、お腹まで見せて無防備な姿である。

 私の夕食は野菜が中心だが、孫には好物の焼肉にブロッコリーと菜園で取れたトマトとキュウリを付け合わせる。好きだというイカも煮つけた。だが、間食のせいで食欲がわかないようだ。テーブルに向かい合って座っていると、いつも一緒に来ていた兄のしぐさとあまりにも似ているので、思い出した。
「お兄ちゃんはちゃんと食べているかしら。言葉は通じているのかしら」
 三歳上の高校一年の兄はニュージランドでホームスティをしているのだ。二週間も離れて暮らしたことがないので、羨ましさと寂しさの入り混じった複雑な心境なのだろう。
「ぼくも来年は行くんだ」
「じゃあ、もっと食べて、大きくならないとね。英語の勉強もしないとね」
「大丈夫だよ。英語クラブに入っているから」
 ケンちゃんは幼稚なことを言ったり、大人びたことを言ったり、考えていることを推し量ることができない。
「どうしておばあちゃんの家に来ようと思ったの?」
「ちょっとした冒険だよ」
 片目をつぶって愛嬌たっぷりに答えた。そして大声で、
「あっ、忘れちゃった。おじいちゃんに挨拶しなくちゃ。お茶をあげるよ」
 と、夫の湯飲みをとり出した。
「そうね、おじいちゃんは大喜びよ。ケンちゃんがアメリカンフットボール部に入ったことも報告しておいたからね」
 すると、急に真面目な顔になって、
「同じフットボールを始めたので、見守って下さい」
 と、手を合わせた。