同級生             
              黒瀬 長生

 5月の休日であった。中学校の同級生6名(今治市在住)が居酒屋に集まった。昭和36年(1961)卒業なので50年前の仲間である。その当時は、高校への進学は6割程度で、中学校を卒業すると京阪神方面に集団就職するものが結構いた時代であった。
 久しぶりの再会を祝って生ビールで乾杯し、お互いの近況報告となった。農業を継いだ者は、野菜農家としてキュウリの栽培で頑張(がんば)っていた。教員や銀行員、会社員であった者は定年を迎え、それぞれ悠々自適の生活をしているようであった。
 アルコールの量が進むと、お互いに子ども時代の愛称で呼び合い、鼻垂(た)れ小僧に戻って思い出に花が咲いた。
「あの頃は、どこの家も貧乏であった」
「同級生で金持ちの家はなかった」
「なんとかしなければ、という思いがあった」
「真面目に頑張れば、なんとかなると思った」
 それぞれが異口同音に言った。
 私も、まったく同感であった。私たちの子どもの頃は、今のように極端な貧富の差はなかったはずである。どこの家庭も貧しかったので、なんとかしなければ……という思いが、誰しも強かったのである。

 子どもの頃に話が及ぶと頭をよぎることがあった。それは、私が、学校からの帰りに父親のたばこを買っていたことである。
 父親はヘビースモーカーであった。まだ禁煙が厳しく叫ばれておらず、むしろ、たばこは大人の嗜好(しこう)品の代表格であった。今のようにコンビニや自動販売機などはなく、たばこは専売品で、近郊で販売していたのは通学路のそばにある雑貨屋のみであった。そのため、父親は、学校からの帰りにたばこを買ってくるように、私に言いつけたのである。
 たばこの銘柄は、『みのり』で、値段は45円だったと記憶している。父親は、時に50円を渡し、残金はお駄賃としてキャラメルを買うことを許してくれていたので、私は嬉しくてたまらなかった。
 ところが、私がたばこを買っていると、同級生も父親のたばこを買っていることがある。それも高級な『ききょう』を10個まとめてである。
 子ども心にこれは悔しかった。私もまとめて買いたかった。父親は毎日たばこを吸っているのだから、まとめて買い置きするのがいいのだが……と思った。しかし、我が家にそんな日銭(ひぜに)はなかったのであろう。
 この悔しさは、大人になっても忘れなかった。そのため、私に少し余裕ができ始めた昭和50年(1975)頃からは、父親のたばこを買うのは私の役目になっていた。
 巻きたばこの『わかば』を20個まとめ買いして届けた。父親の好きなたばこを買うことが親孝行だと思っていた。
 20年ほど買い続けたであろうか。あれほどたばこを手放さなかった父親が、「もう、たばこはやめる。吸うだけ吸った」と、禁煙の宣言をした。満80歳の誕生日であった。
 家族は、体調でも悪いのかと心配したが、「火の始末が面倒になった。火災を起こしたら大変だ……」とのことであった。その後、父親は、一本のたばこも口にすることなく90歳で亡くなったのである。 
 私は、父親の墓参のときは、線香を手向け、あわせてたばこに火を点けてお供えする。
 それを弟は、「たばこ嫌いのご先祖もいるのでは……」と忠告がましく言うが、私は今後もたばこを供え続けるであろう。それが、私の生き方に大きな影響を与えた精神的な原点であるから……。
   
 こんなことを振り返りながら、ビールを飲み、仲間の話に聞き耳を立てた。いずれもが、「なんとかしなければ……」「努力すればなんとかなる……」と今日まで頑張ってきたようで、どの顔にも精一杯生きてきた満足感が漂っていた。
 私は他人を羨(うらや)む余裕などなかった。ただ、真面目に努力すればなんとかなると思い込んで疑わなかった世代である。