駅前の銅像  ー中江藤樹と安原仁兵衛についてー
              早藤 貞二


 周辺に,ある人の銅像が建っている駅がある。例えば、石山駅に降りると、有名な芭蕉の像がある。私の実家は、高島市の安曇川町である。安曇川駅で降りると、東側の出口の前に、「近江聖人、中江藤樹の像」が、西の出口を出た所に、「安原仁兵衛翁像」がある。時代は違うが、二人とも、安曇川の町民にとって、忘れられない人物である。

 始めに、中江藤樹の里を訪ねよう。駅から広い道を、しばらく行くと、旧小川村(現安曇川町青柳上小川)に着く。そこには、藤樹神社、藤樹とその母市(いち)、藤樹の三男常省の墓がある王林寺、そして、史蹟藤樹書院が、程よい距離を隔てて存在している。三十年ほど前、私が書店で買い求めた岩波書店刊行の日本思想体系29『中江藤樹』と題した1冊がある。藤樹先生(1608-1648)は、それ程偉大な学者であったのだ。
 藤樹は9歳の時、米子藩の武士であった祖父吉長に伴われて、今の鳥取県米子に行き、翌年、藩主の転封により、今の愛媛県大洲市へ移り、15歳から27歳まで、武士として勤めた。もともと小さい頃から、中国の『大学』などを読み、勉強好きな藤樹は、皆が寝静まった頃から、『論語』や『孟子』などを読んでいた、という。
 私は、以前、大洲城下を訪ねたことがある。小高い丘の上に、一部昔のままの城(やぐら)が残されていた。(今は、城全体が復旧されていると聞く。)丘からの眺めは雄大で、近くを肱川が流れ、前方は山に囲まれていた。
 きれいな城下町を歩いていくと、「中江藤樹宅址」があり、庭には記念碑が建ち、井戸も残っている。うろ覚えながら、建物の中には、たしか、中央の上に、孔子の像が祀ってあったように思う。近くに大洲高等学校があり、校門を入った所に、立派な藤樹の銅像が建っていた。大洲の町の人達が、いかに藤樹を尊敬していたか分かる。なお、安曇川と大洲の町とは、姉妹提携を結んでいて、年ごとに、子どもを中心にした交流を続けている。
 藤樹は27歳の時、ただ一人で暮らししている母に孝養を尽くしたい、と藩老に願い出たが、聞き入れられず、彼は脱藩して、近江小川村に帰った。それは、その通りだが、その裏には、藤樹が武士を捨てたのは、自分が信奉していた朱子学を、幕府の学用学問とする林羅山への反発があった、とされる。後年、藤樹は陽明学をも信ずるようになる。
 さて、自然豊かな地域の人々に講義をする場所として建てたのが、藤の木が大きく育っている藤樹書院である。藤樹というのは、誰ともなくつけた名前で、本当の名は与右衛門であった。現在の書院は、明治15年(1882)に再建されたものという。藤樹は、35歳になると、ここで『孝経』を講義している。その後、37歳で、前述したように『陽明全書』を読み感動、心のあり方を一層究めた、という。藤樹39歳の時、妻の久子が亡くなり、それから、人々に対する愛と思いやりが深まったという。著書『鑑草(かがみぐさ)』は、そういう女性の生き方を解いたものである。なお、彼の主著は、34歳の時に出した『翁問答』である。その中で彼は、人は皆平等で、自由であり、いつでも、どこでも、具体的な場面に適した行動を執る、ことも説いた。
 藤樹は、生来多病であったが、31歳以後喘息を患い、慶安1年(1648)に亡くなった。藤樹は、人間性のみならず、立派な教育者でもあった。地域の人々、例えば私の実家の祖先、早藤茶右衛門(1589-1647)は、中江藤樹の門弟であった(藤樹全集による)とあるように、庄屋のみならず、一般農民もこぞって書院に通い、藤樹の話を聞いた、という。
 遠方から藤樹の里を訪れた人も多かった。熊沢蕃山や大野了佐のように。また後に、陽明学者の大塩平八郎(1792-1837)が書院を訪れ、「致良知」を説(と)いたり、さびれた建物の修理に力を貸した。私の実家の祖先、早藤貞太(1816-1855)は、大塩平八郎に師事した、とのことである。大塩平八郎が大坂で乱を起こす、という檄文が届くと、小川村の人や、安曇村の貞太らも、朝早くから大坂の方へ出掛けた。だが、途中で、乱は幕府側に取り沈められた、と聞き、追手から逃れるため、急いで駆け戻った、ということだ。

 さて、安曇川駅の西口を出た所に、「安原仁兵衛翁像」が建っている。彼は、旧安曇村南市(現安曇川町南市)の人で、JR湖西線が通ずるまでは、「江若鉄道」の生みの親、と云われていた人だ。湖西地区は、長い間「陸の孤島」や「滋賀県の北海道」と呼ばれていた。私の父も母も、大津の学校へ行くのに、舟木港から「太湖汽船」で行き、学校の寮に入っていた。
 湖西の人々は、何とかして、早く鉄道を敷いて欲しい、と念願していた。その願いを、敏腕な政治家、安原氏の力に託した。氏は、安曇村の村長から、高島郡会議員、県会議員(議長)、そして、国会議員になる。県も早くから、人々の期待に応ずるべく努力をしていたが、安原氏の、国会での苦労は並大抵ではなかったそうだ。やっと、当時の首相原敬から、江若鉄道の認可を得た。
 とにかく、大正9年(1920)に、江若鉄道株式会社が設立された。以後、線路は、浜大津から今津まで伸び、昭和6年(1931)に開通した。人々の喜びはいかばかりであったろう。ただ、会社の専務取締役の彼は、昭和6年(1931)8月6日、三井寺下の本社へ出社中、蒸気機関車に接触し、急逝した。58歳であった。私の3歳の時である。
(『滋賀作家』125号より)

主な参考文献:安曇川町史編集委員会『安曇川町史』、久保田暁一『中江藤樹』致知出版社、奈良本辰也編『日本の私塾』角川書店、尾藤正栄他 日本思想史体系29『中江藤樹』岩波書店、『中江藤樹全集』岩波書店