〈評論
     現代的な倫理観 
            高橋 勝

 ゴッホは、生前、いかんともし難い病気を二重に患っていた。1つは、「てんかん」と呼ばれる精神分裂症である。絵を描いているときに突然発作が起きて、獣のように倒れると『ゴッホの手紙』に書いてある。もう一つは、強烈な自我の発現である。このため、牧師も、家庭教師も、恋愛もだめだった。弟テオとも会うと上手く行かなかったし、友人ゴーガンとも折り合いが付かなかった。それゆえ、こうした生々しい「個性」を捨ててしまいたかった。
 その方法は、ただひとつだけ身につけていた絵画の技法を生かして絵を描くことだった。ゴッホは、絵筆を持って外に出る。麦畑の広がる田園であったり、舟の浮かぶ海辺であったり、入院している病院の庭であったりする。そこで得られる感動を、絵画というフォームに表現していく「労働」が、唯一自分を救ってくれることを『手紙』で告白している。
 ゴッホは、持病への対応のなかに、逆説的に自身の倫理的な意志が内在していることを、透かし見せてくれている。描くという生産活動に携わることによって自らの「病」を乗り越え、健全な心理や精神状態を何としてでも維持しようとした。人とうまく付き合い、よりよい人生を生きたいという魂の叫びが、飽くなき渇望として息づいていたのである。
 ところで、今日、学校に道徳教育が導入されようとして、様々な議論が盛り上がっている。しかし、道徳性、ないし倫理性というものは、何も子どもにだけ必要なものではなく、捉えようによっては大人や、大人の形成している社会の在りようが子どもたちに陰に陽に多大な影響を与えているとも考えられる。
 今日、情報社会の進展はとどまるところを知らず、ゴッホの生きた時代にはおよそ想像すら及ばない生き方に人間を追いやっている。パソコンやスマートフォンの普及はそのぶん人間の楽しみや活動の領域を増やしたかもしれない。ところが、その分、直接触れ合って生きることの必要性や価値観といったものを相対的に減衰させているし、ヴァーチャルな言葉や画像を現実社会のものと錯覚させ、仮想現実にさまざまに埋没させている。
 明確には意識できないが、どこか違和感を覚えたり、事の真相をさらに把握したいと思ったりして、何らかの罪悪感や嫌悪感を抱いている人にとっては、現実と交わる機会がモノを言うのではないだろうか。つまり、関わる目の前の相手や社会が示す微妙な反応を、直に感じ取れるかどうかである。
 黙していても、少しでも拒まれたり、侮られたりする仕草が感知できれば、そこにはそれまでの世界とは異質の健全な社会が現実に遙かに広大に存在しているのに気づき、その都度自身の生き方を変えなければと心の痛みを覚えるだろう。政治的に偏りのあるブログに嵌まっていたり、アダルトサイトや不倫サイトに取り憑かれたりしていることがあるとすれば、その際は、まずは観るのを控えようとしたり、ネットそのものに近づく時間を減らそうとするに違いない。ここには、すでに現代における倫理観の萌しというものが明らかに覗える。