五度目の救急車
               山内美恵子

 平成二十六年五月、萌えわたる若葉に初夏の光がふりそそぐ、休日の朝である。
 朝食の準備を終え、夫を待っていた。いつまで待っても、夫が起きてくる様子はない。既に九時を過ぎていた。大きな不安が脳裡をかすめる。
 急きょ二階に駆け上がり声をかける。だが返事はなかった。ただならぬ気配がした。ドアを開けると、消え入りそうな声で、起き上がることが出来ないと言う。とっさに、脳梗塞の疑いを持つ。
 夫はこれまで、四度の脳梗塞に見舞われていたからだ。先ず手足の麻痺や痺れを確かめる。何とか動いた。新たな言語障害もない。他にからだの機能に異常はなかった。
 脳梗塞の疑惑が消え胸をなでおろす。だが、夫の額に手を当てると、大変な熱であった。体温計は見る間に一番上の目盛まで上昇した。
「誤嚥(えん)性の肺炎にちがいない」
 何よりも、高熱がそれを物語っていた。脳梗塞のように、焦眉の急ではないにしても、誤嚥も肺炎も決してあなどれない。重症化すれば死につながった。義母は誤嚥性の肺炎で、母も施設で風邪に感染し、肺炎で亡くなったからだ。
 肺炎と確信した私は、少しも気が動転することはなかった。嚥下障害のある夫は、必ずこのような日が来ることを予想し、頭の中には救命までの手順や、自らの行動の展開を、常に準備済みだったからである。日々夫の病気と向き合っていると、素人の私でもおおよその見当がつき、冷静に対処することが可能だった。
 夫は脳梗塞を重ねるごとに、嚥下をはじめ言語、認知等様々な障害が残った。半年間病院でリハビリに明け暮れたが、あまり改善することはなかった。その上、心臓病や喘息等いろいろな病気を抱えていた。
 とりわけ嚥下障害に至っては、重症だった。病院での検査の折、医師の許可を得、夫の嚥下の様子を、モニターでつぶさに観察する。夫は検査用の水分を飲む度に咳込んだ。喉が塞がれ気管支に入っていくためである。夫の嚥下機能は、いつなんどき誤嚥が起きても、少しも不思議ではなかった。
 そんな夫の食事は、粘液状にする市販のトロミが不可欠である。特に水分は、むせて咳込みが激しいため目が離せない。食事の度に私は常に、細心の注意を払わなければならなかった。
 しかし、何事にもこだわりが強く、珈琲通でもある夫は自分専用の豆で、私が留守でも飲んでしまう。食べ物の制限も少なくない夫にとって、珈琲は以前も増して楽しみとなる。至福の一杯を一口一口堪能している姿は存在感にみち、束の間私をも幸せな気分にした。
 夫のささやかな唯一の楽しみと、生きる喜びを奪うのも気の毒に思い、私はいつでも自由に飲むことを許していた。幸いなことに、時間をかけて堪能する至福の一杯は、不思議とむせることはなかった。誤嚥の原因が思い当たらず首をかしげる。 
 階下に駆け降りると、先ず主治医の指示を仰ぐことにした。休日のため電話は、何度かけても留守電だった。間髪を容れず救急病院に意向を打診した。主治医が留守である事情と、これまでの病歴から誤嚥による肺炎であることを、あえて告げた。
「素人の判断だけでは、受け入れることはできません」
 病院側は、高圧的にぴしゃりとはねつけた。それは予想していたことだった。一度も通院したことのない病院である。脳梗塞でお世話になった病院は、あまりにも遠すぎた。今回は、以前私が帯状疱疹で入院したことのある、近くの病院に運びたかった。
「救急車をお願いするつもりですが、ならば、救急隊員のご判断ならよろしいのでしょうか――」
 私は丁重にきりこんだ。老年らしい声の男性は、最後に歯切れの悪いことばで、救急隊に任せると言って電話を切った。
 しぼるような汗のパジャマを脱がせていると、か細い声でお手洗いに行きたいと言う。一瞬、どう階下に運べばよいか腐心する。一人では動かすことも、抱えることもできなかった。脚のリハビリを兼ねたいと言う本人の希望で、寝室は二階にしていた。
 しかし、迷っている時間はなかった。何とか階段まで引きずり、私の肩に両手をかけさせた。十キロ近く体重が落ちたとはいえ、私よりまだ二十キロは重いはずだ。筋肉に力が入らない、だらりとしたからだは、まるで巨大なタコを背負っているかのような、ずしりとした重さであった。
 手すりにつかまりながら、私は無我夢中で階段を一段一段降りた。普段ならこのような力など出るはずもない。まさに、火事場の馬鹿力であった。
 夫を階下のソファに寝かせ、頭を冷やす。脱水気味のため、スポーツドリンクを一口ふくませる。パジャマを着替えさせると、夫はすぐに寝入ってしまった。一息入れ、おもむろに119番した。
「火事ですか、救急ですか」
 男性の明快な声が受話器にひびいた。家で救急車を要請したのは初めてである。そのほとんどが、外出先での要請だった。夫にとっては五度目の救急車である。
 外で待っていると、救急車は大音響のサイレンを鳴らすことなく静かに止まった。近隣への配慮なのだろうか。しかし、到着するや否や、休日の住宅街がざわめく。夫の異変を案じたご近所の人たちが、集まり始めた。
 どなたともことばを交わす暇もなく、私はそそくさと家の中に駆け込んだ。お二人の隊員に夫の様子と、病歴を簡単に伝え、救急病院へ打診の結果を手短に話した。
「出来るだけ希望に添うようにしますが、拒否された場合は、別の所でもいいですか」
「以前は新宿の病院でした。今度はなるべく近くにお願いできれば嬉しいのですが」
 隊員のお一人が、快く承諾してくださり、私の希望した病院に運んで下さることになった。病院と交渉している間、他の隊員が夫の体の具合つぶさに観察し、血圧の測定等を済ませる。その手馴れた速さに、救急隊員の手腕を見る思いがした。
 精悍できびきびとしたお二人の行動は、ベテランらしい頼もしさと、心強さを与えた。付き添う私にまで、足元の気遣いを怠ることはなかった。何事にも心の届く温かさがにじみ出ていて実に好感が持てた。お二人の丁寧なことばや自信にあふれた表情からも、成熟した社会に相応しい、高い人格と品位さえ感じとれ、私は深く胸を打たれる。
 私は夫が脳梗塞を発症する度に、何度か救急車に同乗してきた。不安感もなく爽やかな心持になったのは珍しかった。乗車後、
「本日はありがとうございます。どちらからおいでいただいたのでしょうか?」
 私は隊員に訊ねた。必ずしも住む市町村の救急車とは限らないからだ。お一人の隊員がわが市名を応えた。自分の市の救急車に乗るのは初めてである。私はわが東村山市の、誇りを感じずにはいられなかった。胸を熱くしながら感謝のことばを述べた。
 十分ほどで救急病院に着いた。夫は相変わらず、目を開けることはなかった。私は急患の窓口に走った。名前を告げると、待っていたかのように、
「電子カルテが見つかりました!」
 年輩の男性が開口一番におっしゃった。電話の声とはまるで別人のような明るい声だった。一生懸命カルテを探して下さったのである。電子カルテのことは、入院していた病院からは伺ったことはなかった。予期せぬ男性のことばに一瞬、狼狽する。
 それは、あらゆる個人情報が、ネットに接続される恐怖でもあった。しかし、今回は焦眉の急であるため、ネットの便利さを享受できることを、素直に喜ぶことにした。

 休日の救急外来の長椅子には、幼児や小学生、付き添いの大人たち、老年の夫婦等で溢れていた。高齢の看護師さんが、
「今日は風邪の患者が多いですよ」
 そう私に言い、インフルエンザの検査を始めた。しかし、夫は陰性であった。高熱にあえぐ夫に酸素マスクがつけられた。ストレッチャーに乗せられ、レントゲンやエコー、CT等の様々な検査が行われる。
 夫が三階の病室のベッドに寝かされたのは、午後の七時だった。若い医師から、肺炎であることを知らされる。ようやく点滴が運ばれ、治療が開始された。
 間もなく五十代とおぼしい、気さくそうな女性医師が病室に現れ、私にナースステーションに来るようおっしゃった。後をついていくと、しきりに私の後ろを覗く仕草をされた。命じられるまま、丸い椅子に座ると、
「おかあさんは?……」
 けげんそうなお顔で私に尋ねた。
「先生、私が妻でございます。夫と一歳しか離れていない老婆ですよ」
「ええっ、娘さんかと思いましたよ」
 女性医師は確かめるように私を見、人なつっこい笑顔を向けた。二人で笑い入る。医師はすぐに真摯な表情で、二枚の紙を私の前に置き、淡々とサインを求めた。それは救命と延命の同意書であった。私がちゅうちょしていると、
「高齢になると、急変して亡くなる人が多いですから――」
 言われるまま私は余儀ないサインをした。
 半年のリハビリを経て今年退院した夫は、心身に大きな変調をきたすこともなく、希望の光に包まれ晴れやかな日々を過ごしていた。それだけに、酸素マスクの姿は見るも痛々しく胸がつぶれた。
 もしものことがあったら、私が心を尽くしてきたこれまでの努力は徒労に終わる。だが、夫は強運の持ち主であった。今回もきっと回復するにちがいない。そう確信する。
 病室に戻ると、ベッドサイドの椅子に座り、あわただしかった一日をふり返った。平凡な暮らしの尊さが身にしみる。
 老境に入ると何があるかわからない。その上、人間の死までの道のりは、容易ならざるものがある。人はたとえからだが衰えても、そう簡単には死ぬことが出来ないからだ。
 103歳で今なお、現役でご活躍される日野原重明医師のことばを、私は思い出していた。「老いとは衰弱ではなく、成熟することです」と、ご著書『生き方上手のことば』の中で述べられる。
 日野原医師のおことばは、介護人生となった私の心を激しくゆさぶる。氏のように成熟度の高い人ほど、見事な人生を生き、おしなべて長寿の方が多いからである。未成熟な自分の人生が貧弱に思えた。
 私は少しでも成熟度が増すよう、自らの生きる座標軸を見直す。追われるような日々からは、何も生まれないからだ。たとえ疲労の極みにあっても、自分と向き合う時間を心して作る。静けさに身をおくと、豊かな気持になった。予期せぬ力がみなぎり、介護の日々に新たな息吹を与え疲労をやわらげる。

 外は夜のとばりにつつまれる。時計を見ると八時を過ぎていた。夫は酸素マスクをつけ静かに眠っていた。明朝来ることを夫の耳元で告げ、そっと病室を後にした。
 豊かな緑の中の病院は、一面闇に覆われ静けさに包まれていた。玄関の救患口に救急車が一台止まった。急患がまた運ばれてきたようだ。生涯五度も救急車のお世話になった、夫のような者も稀有であろう。わが家はどれ程恩恵に浴してきたことか。私は夫の分も、お辞儀を深くして通りすぎた。
 夜空には、まどかな月がかかっていた。月は母の顔と重なった。走り続ける娘の力が、いつか尽きてしまうのではないかと、母は心配しているにちがいない。
 久方ぶりに母と会ったたような気がし、まつ毛がぬれた。私は背筋を伸ばし、
「だいじょうぶですよ。成熟を促すために神様がお与えくださった、素晴らしい時間なのですから心配無用ですよ」
 月の都にいるであろう母に語りかけた。

 嵐のような一日が終わった。