八十にして思う
                  根岸 保

 昭和の終わりころから高齢化社会と言われてきたが、平成時代になるといつしか“化”が消えて高齢社会ということになった。私はいつの間にか後期高齢者と行政関係者から呼ばれる年になってしまった。
 これは私が年を取った、生き永らえている。それ故に「後期高齢」と呼ばれるようになったのだろう。それにしても長生きをしていれば、年を取るのは自然の成り行きで、なにもわざわざ“後期高齢”なんてレッテルをはる必要はないと思うのだが。
 それはさておき、八十歳を過ぎても丈夫で達者なのはありがたい。とは言っても病院通いしないだけの話である。それに車検ではないが、年に一度は検診に行っている。
 ところで、八十年も生きていると身内をはじめ、友人知人が年年歳歳歴史のかなたへ去り行くのを見送る場面が多くなっている。そして、いつしか「見ざる、聞かざる、言わざる」ではないが、見ることも、聞くことも、言うことも、そうした機会が無くなってしまう。
 俗な言い方をすれば「野次馬根性で高みの見物をする」「うわさ話を聞く」「駄弁をろうす」といった浮世かわら版情報は、すべて俺には関係ねぇーと相成る。つまり、世間とのかかわり合いがなくなり、他人との付き合いが疎遠になるというわけだ。年齢を重ねるにつれてごぶさたから、人の世のはかなさを感じてくると言っていい。
 子どもの頃はそれぞれの生活環境の中で育ち、学校を卒業すると夢や希望を抱いて、社会へ踏み出していく。そこでさまざまな人間の生活や生き方を見ながら自分の生活を確かなものにして、生きていくのが大方の生き方ではなかろうか。しかし、現実は老若男女を問わず時には病魔に冒されたり、けがをしたり、あるいは天災人災に遭ったり、どこでどう間違えたか脱線をする者もいれば、あの世とやらに去った気の毒な人もいる。まさに人生いろいろだ。
 ひと電車早く乗ったので事故に遭わなかったとか、乗り遅れて助かったとか。汽車、いや今は電車というべきだろうが、飛行機、船、自動車と交通機関に限らず、この種の話はいくらでもある。
 これを運が良かったとか、悪かったとか、巡り合わせとか、虫が知らせるとか言っている。時と場合によっては、あきらめが肝心などということも言っているが、その都度、幸不幸、運の善し悪しを判断している。不幸中の幸いなんて言うのもこの類だろう。
 こんなとりとめのない話を書いたのは、何だかんだと言いながらも、長生きしていると種々雑多な場面に出くわすからだ。これも年のせいかもしれないが、折に触れて去って行ったあの日、あの時を思い出す。
 たとえば、電灯一つ、水道の蛇口一つで暮らせた昭和十年代、別に何の不自由も感じていなかった。と言うのも、明かりはランプ(灯油)で、水は井戸からくみ上げていただけに、電球一個、蛇口一か所であっても便利この上なしで、ありがたかった。
 交通手段も、乗り合い自動車(バス)や汽車が主役だったので、開通していない所へは徒歩か、自転車かで行くより手がなかった。十数キロ(往復)の道のりを歩くのは当たり前だった。
 ラジオ、電話機にしてもそうだ。無くても不便とは思わなかった。ところが、文明の利器の発明、機器の普及、そして大衆化によって生活文化に欠くことのできない存在となった。こうして限りない文化の恩恵に浴するようになったが、このたびの東日本大震災に見舞われてみると、不自由、不便が当たり前だった昔が懐かしく思い出されてくる。
 同様に身内にしても時季折折の「物日」ともなれば、あの日あの時が思い出されてくる。
 年中行事に例をとると年の暮れには神棚の掃除、もちつき、すす払いなどを手伝ったり、十五夜には山野へすすきを取りに行ってきて、縁側にちゃぶ台を出して飾り付けたり、といったことが、その時季になると思い出す。
 また、私には三人の兄がいた。長兄は、いつも世の中は学校の教え通りにはならない。ままならないのが世の中だと言っていた。次兄と三番目の兄は文芸が好きで、短文や俳句、川柳に親しんでいたが、私がこれらの文芸に力を入れるようになったのもこの二人の兄の影響が大である。だが、時すでに遅しで、私の作品を兄たちに読んでもらえない年になってしまった。何かにつけて、父母や兄たちが生きていたら、と思い出す。と同時に丈夫に生き永らえている、これが私の自慢話である。
 たわいない話だが、要は生きていて良かったと感じる日々、ということになろうか。