エッセイ 
   『裸の十九才』を観て
             高橋 勝


 テレビはデジタル放送になったけれど、いくら映りが良くなっても観たいと思うものがあまりない。BS放送の番組に眼をやると、古い日本映画をけっこう放映しているのが分かる。そこで試しに、日本映画を専門に放映しているあるチャンネルをひとつだけ契約することにした。
 おおよそ一九四〇年代から七〇年代までの日本映画を観ると、少なくとも名作といわれる作品にはいずれも身体の内側からほとばしるような力がこもっていて、登場人物のナマの声や息づかいが、概ね自然な印象を与えているものが多いようにと思う。それぞれの時代にはその時代の持つ雰囲気が、無意識のうちに映写機のなかに写し取られてしまっているからなのだろう。
 先日のある晩、録画しておいた『裸の十九才』という映画を観た。原田大二郎、乙羽信子主演、新藤兼人監督のこの映画は、以前学生の頃か、どこかで観た記憶がある。ある場面、ある場面が記憶の底から蘇ってきて驚かされる。しかし、その当時は単なる前衛映画で、女性の裸が良く出てくる白黒映画のため、かえって艶めかしい効果が出ているなぁなどといった印象しか持ち得なかったのではないかと思う。ところが、今回は何気なく観終わり、その後布団の中に入ったけれど、何かしら強烈なインパクトが胸に焼き付いていて、翌朝目が覚めても悩ましさは続いていた。なぜ彼はあのような生き方をしてしまったのだろう、重い種が全身を浸しているのを感じる。
 ビデオ映画を観始めると、序幕でこの映画を撮ることになった経緯について監督の詞書きが映し出された。この文句はおおよそ理解できたと思っていたが、翌日インターネットでこの作品と実在の主人公について更に調べてみた。するとこの作品は、昭和四十三年十月から翌四十四年四月にかけて、東京、京都、函館、名古屋で四人を射殺した、いわゆる「連続ピストル射殺事件」の犯人、永山則夫をモデルに、ほぼ忠実に彼の人間性を再現したものであることが分かる。上映されたのは逮捕されてからほどもない昭和四十五(一九七〇)年である。この間、新藤監督は、永山の育った現地に赴き、中学時代の同窓生や地元の人たちから細かい聞き取り調査をして、作品に反映させたのだという。
 映画では、主人公の名前は山田道夫になっている。道夫は中学を卒業と同時に集団就職で東北の田舎町から東京にやってくる。渋谷のフルーツパーラーに勤めるが、仕事も続かず、その後四年間各地を転々として転職を繰り返す。浮き草みたいな生活を続けているうち、横須賀の米軍基地の宿舎に忍び込み、部屋に置いてあったハンドバックの中から女性用の拳銃を見つけ、盗んでしまう。海岸の岩場に行き、試し打ちをしては、「これだけが俺の味方だ、唯一の仲間だ」と不適な笑みを浮かべる。それからこの「友達」をポケットの隠しにいつも持ち歩き、道夫十九才の秋から連続殺人を繰り返すようになる。
 実在の永山則夫は、資料によると、八人兄弟の七番目の子(四男)として昭和二十四年に北海道網走市呼人(よびと)番外地に生まれる。父親は腕のよいリンゴの枝の剪定師だったが、稼ぎの大半を博打につぎ込み、家庭は生まれたときから極貧で崩壊状態だった。昭和二十九年に、母親が当時五歳の則夫を含む四人兄弟を網走の家に残し、青森県板柳町の実家に逃げ帰ってしまう。残された則夫を含む四人兄弟は、漁港で魚を拾ったり、屑拾いしたりしながら、なんとか餓死寸前の生計を立てて生きながらえる。
 彼がなぜ四人もの犠牲者を出すことになる連続射殺という犯罪を起こしてしまったのか、事件後、その原因や背景が多々論じられている。概ね共通するのは、想像を超える貧しい生い立ちがそうさせたのだというものである。確かにそうした環境的条件は間接的にせよ作用している面はあると考えられるだろう。しかし、平成二(一九九〇)年に、最高裁判所で「家庭環境の劣悪さは確かに同情に値するが、彼の兄弟は凶悪犯罪を犯していない」という理由で死刑判決が確定したのを見ても分かるように、すべてを環境のせいにすることは的を射ていないのではないか。私はこの映画を観る限り、父親はもちろんであるが、母親の影響が特に大きかったのではないかとの印象を持った。
 博打好きな父親はろくに家に帰らず、たまに帰ると自分の稼ぎを入るどころか家のものを持ち出しては金に換えてしまう。このため、子どもたちは今の言葉で言えばネグレクトされて育つことになるゆえ、彼らの拠りどころはいつも傍にいる母親に向かうことになる。その母親山田タケは、子どもをつぎつぎに産む。生活保護を受けてはいるものの、女手一つで満足に食わせられない状況だというのにそうし続けるのである。なぜそれほど子どもを作るのかと一瞬疑問がわく。
 あるとき、長兄がある女に子どもを産ませて姿を眩ましてしまったと言って、福祉事務所の関係者がその赤ん坊をタケのもとに連れてきた。タケは、大きな娘たちの冷たい視線には目もくれようともせずに、言われるがまま、自分の息子の赤ん坊だものと言ってその赤ん坊を快く引き取るのである。
 映画では、この場面にほのぼのとした人間味が漂う。この出来事は、タケはできてしまった赤ん坊は天の授かりものだとして、決して葬り去ることはできない魂の持ち主であることを暗示している。つまり、タケは天命を素直に受け入れる人の好い一人の母親なのである。しかしたとえそうだとしても、これではなぜ生活がやっていけないほど苦しいのに子どもを作り続けるのかといった疑問は解けない。
 ところがこの映画の監督は、その裏で暗にこの背景について映像に写し撮ってしまっていると言われる。つまり、いつもは疲れ切った冴えない表情を見せている母親のタケであるが、ときおり戻ってくる夫との情事の場面になると、まるで別人になったかのような生き生きした満面の喜びの表情を見せてしまうのである。この場面などから、当時の東北農村における性交に対する考え方が表現されているのだとの言及がある。すなわち、当時の貧困層はあらゆるものに飢えていて、生きるために自分の快楽を手にすることが精一杯で、他のことを考える余裕などないほどだったというのである。つまり、性交は愛の交わりなどではなく、生活に追われる苦しみばかりの日常で、生きていることを実感できる唯一の喜びなのだというのだ。そこには固い貞操観念など無きに等しく、ただ享楽の作業としての情事だけが存在していたとする考えなのである。そういう目で見れば、このタケは、確かにいくらどうしようもなく憎らしい夫であっても、その夫に迫られると抵抗するどころか、次第に無我夢中にしがみついていくのである。
 人間は、あまりの貧しさに直面すると、目の前の過酷な状況に向き合おうとする気力も理性も麻痺してしまい、それでも生きるためにはしっかり実感できるものだけが信じるに足るものになってしまうのだろうか。これは芥川龍之介の『羅生門』の世界とも違う。あそこには、生きるためには善悪などにかかずらってはいられない現実に向き合う強力な意志と行動が見られた。ところがここにはそうしたバイタリティとは異質のバイタリティが存在している。いっときの無上の喜びのためには目が眩んでしまうのか、今という現実などまったく眼中になくなってしまう生きざまである。そのうえ、こうした生き方をしている自分を咎めることなど微塵も見られない。現実から遊離した行動をとるタケのこうした在り方が、道夫の生き方にそのまま繋がっていると思えてならない。
 道夫にとって人を殺すということは、そうしなければ生の実感が今の生活には存在しないところまで追いつめられていたことを意味するのではないか。彼は、この世で信じられる人を一人として持たない孤独感と、生活のなかから生きている証(あかし)が持てない虚無感を抱えながら、生きようとする意志だけが執拗に蠢(うごめ)いていた。その生きる意志だけが身体の中で肥大し、今の自分の置かれた現実を見つめる精神性は限りなく縮小し、僅かにあったとしてもそれを振り切るように、いまだはっきりとは分からないが、どこか幻惑する「向こうの世界」に渡ってしまおうとする。そこには、光り輝く別世界が存在しているかの想いに促され、その想いを実感させてくれる唯一のものとして、彼は遊離してしまった自分の魂を強いて鎮めるかのように、拳銃の引き金に指をかけ、打ち放すことに駆られていったのではないか。
 ところで、先頃亡くなられた詩人で評論家の吉本隆明の詩に、こうした生の在り方を的確に表現しているものがある。「涙が涸れる」という題の長詩から、ほんの一部だけ(ネットより引用)だが記してみたい。

 胸のあひだからは 涙のかはりに
 バラ色の私鉄の切符が
 くちゃくちゃになってあらはれ
 ぼくらはぼくらに または少女に
 それを視せて とほくまで
 ゆくんだと告げるのである

 この詩には、「涙」という、過酷で、受け入れて生きるには耐え難い現実があり、それを拒絶し、あるいは無視してそこから離れ、まだ見たことも行ったこともないどこか遠くに行けば、そこに何かバラ色に輝く、幸せにしてくれる素敵な場所があるかも分からない、いやあるに違いない、だからそこを目指して、この辛い現実から、外にある広い空間に向かって飛翔しようという意味が込められている。 
 この詩人がこの詩を作ったのは、昭和四十年代初頭の全共闘運動が高まっていく直前の頃である。こうした内容の彼の一連の詩群は、その後の学生運動に関わった若者たちや、中島みゆきや井上陽水など、フォーク系の歌手に多大な影響を及ぼしたといわれる。また村上春樹の小説の世界が、まさにこの理念を根底に持つものであると指摘する意見もある。
 この映画の道夫の場合、これが極端なのである。一日として今の「場」を、目を見開いて見ることもできず、受け入れることもできず、ひたすら飢えた鳥獣がある空間から次の空間へと飛び渡り、彷徨っているだけのような姿に映ってならない。その最終的に行き着く先が監獄であり死刑というのは、なんと捉えたらよいのだろうか。
 その後、獄中で永山は、読み書きも困難な状態から独学で執筆活動を開始し、昭和四十六年に手記『無知の涙』を発表する。そのなかに、次の一節(ネットより引用)がある。

 眠ったふりして考えた。この夜が最後のものなら 僕は何をするんだろう 人にすがって哭くだろうか わめき狂い暴れるだろか
 眠ったふりして考えた。ここから出たら何処があると 煙草を吸い 豪奢物喰うだろか
 その次、女と寝るだろか

 考えて考えて最後に願う 明日があるなら今日は仕合せで暮らそうと 明日がなければ何も考えないようにと
 眠ったふりして考えた 主張するのはやめようと 凡人になるのはやめようと

 このなかで、「考えて考えて最後に願う 明日があるなら今日は仕合わせで暮らそうと 明日がなければ何も考えないようにと 眠ったふりして考えた」の一節のところに、彼の終始一貫した本質が垣間見えるのではないだろうか。
 だがこれは決して他人事ではないと思う。他人から見れば恵まれすぎる境遇に居るのに、そして羨ましがられる状況を獲得しているのに、その場を棄て去って、長らく胸に秘めていたことを、退職を目の前にした今しかないんだと思いこみ、現実の自分の力量も省みず、また今携わっている仕事の意義も生活のことも熟慮することもなく、とにかくやってみなければ分からないじゃないかと意を決し、そのプロの世界に飛び込んでしまったり、好きでたまらない趣味、例えば心に染み入るレコード音楽を納得いく音で聴こうと、身分不相応の、生活を犠牲にしてまでオーディオ装置に入れ込んでしまったりする。あるいは、特に思っている人がいるわけでもないのに、せっかく世話をしてくれた縁談を受け入れられず、のちのち後悔の念に取り憑かれ、その都度やるせない想いに沈んでしまうといった人生の話は、あちこちに転がっていると思われるのである、たとえその深みにおいて、自らの命はなんとか紙一重のところで保っているに過ぎないとしても。
 この映画からさまざまなことを考えてきて、私には自らへの戒めをも込めてか、あるイメージが思い浮かぶ。
 長い冬をじっとそこで耐え忍び、絶えることなく身に降りかかる過酷な現実から目を背けず、あらゆる力を総動員して闘い続け、そうやって踏ん張っているうちに、いつしか温かな日差しに包まれ始めるや、抑えていた芽も、おもむろに吹き出し、花びらも、恥ずかしげに顔を出してきて、束の間咲き誇ると、突如襲ってくる雨や風に、未練もなく吹雪となって散ってしまうや、それを合図と、新緑の葉が、赤ん坊が結んでいた掌を開くように、いっせいに伸び始め、頬を撫でる風に、泰然と枝の先で舞う、深く連なる森の木々を観て、微笑んでいる人間がいる。(了)