「母の日」の銀ブラ
               山内美恵子


 平成二十三年、「母の日」を間近に控えた五月のはじめ、都内に住む息子から電話があった。
「今年の母の日は、銀座でお食事をして、銀ブラはいかがですか?」
 しかし私は、そのような気遣いは不要である、と最初は断った。
 息子は昨年、高層マンションの十八階を購入し、何かと物入りのはずだ。既に心を尽くした、「贈り物」も届いていた。これ以上負担をかけさせまい、という親心からであった。
 その上、その日はセミナーの受講日でもあった。いつまでも精神を干からびさせず、みずみずしくありたいと、老骨に鞭を打ちある講座に通っていた。場所は銀座に近い「東京国際フォーラム」である。そう話すと声を弾ませながら、
「折角銀座の近くまでいくのですから、たまには銀ブラもよろしいでしょう―」
 なお好都合とばかりに熱心に誘う。最後は、息子の意に添うはめとなる。

 セミナーは十二時で終了した。外に出ると、初夏の日差しが照りつけ、汗ばむ陽気である。息子が私の体を気遣い、タクシーを拾う。
 鳩居堂で先ず買い物をする。便箋や封筒、メモ帳等をたくさん手にした息子が、何も買おうとしない私を訝(いぶか)しがる。若い頃は、私も原稿用紙をはじめ様々な品をあがなった。しかし近年は、近くのデパートにも入店しているため、そちらで十分用が足りると応(こた)える。出ようとしたら、砂まぶし(金粉入り)の葉書を見つけた。俳句用に数葉あがなう。
 食事をするため、日本料理店の並ぶ裏通りを歩く。だが、息子が目当てにしていたお店は、日曜日のため休みだった。他のお店もほとんど閉まっていた。急遽(きょ)洋食にする。
 案内された席は、奥のゆったりした個室のような所だった。料理が運ばれてくる間、息子はケータイの写真を開き、自分で作った料理を見せてくれた。「ミネストローネ」、「サーモンとキノコのクリームパスタ」、「トマトとモッツレアチーズのサラダ」等の、彩り豊かなイタリアンが、品よく盛り付けられていた。あまりにも美味しそうなので、身を乗り出して眺め、ことばを添えた。
「ずいぶんお料理の腕を上げましたね――」
 料理の勘(かん)と、匙(さじ)加減は、お母さんのおかげです。幼少の頃からいつも側で見ていなかったら、こうはできませんでしたから。どれも思った以上においしくでき、自分でも驚いています。パスタのクリームソースも自分で作ったので、ものすごくおいしくできました。今度帰る時、何か作って持っていきますね」
 息子が、人なつっこい笑みを浮かべて言った。和やかに会話が始まる。
 幼いころから、好奇心と探究心の旺盛な子だった。特に直感とひらめきの鋭さには、いつも驚かされた。何一つ教えたこともないのに見ただけで、私や夫の真似をしては何でも自分で創ってしまう、面白い子だった。それは大人になっても、少しも変わっていなかった。
「人生で大切なのは、人に教わることより、自分で学びとることよ。そうすると、感動で心が満たされ、人生もより深く楽しくなるわ。するとね、眠っていた遺伝子も生き生きと活動をはじめ、脳細胞も活性化されるそうよ」
 料理から幼少時の話に花が咲き、会話が弾む。外食ばかりの日々を案じていた私は、息子の食事を垣間見て胸をなでおろし、ゆっくり食事を楽しむ。
 席を立つと、「是非、案内したいカフェがある」と言う。八丁目まで銀ブラをしながら、並んで歩を進める。ゆったりした時間と幸福感が心地よい。

 休日の銀座は、歩行者天国だった。解放感があり、行き交う人もゆったり感じられた。息子が私の歩調に合わせながら、常に階段や段差を気遣う。
 花屋の店先には、赤いカーネションがあふれ、若い男性の行列ができていた。女性よりも男性の方が、母への思いが強いのだろうか。行き交う女性たちは皆おしゃれが上手で、洗練されていた。若い女性たちの、天女の羽衣のようなふわりとした洋服が、初夏の日にまぶしい。
 大勢の客で賑わっている店に目を移すと、「ユニクロ」だった。近年は、内外のファストファッションの進出が相次ぎ、銀座も変容した。時代の流れなのだろうか。驚いたのは、銀座最古の「松坂屋」が二年後には、取り壊されてしまうことだ。六年後には新ビルが出来るとはいえ、銀座の顔が亡くなってしまうようで、複雑な思いであった。かつては、上野の店と共によく足を運んだ、思い出の多い店だからである。松坂屋の建物をしばらく仰ぐ。
 そぞろ歩いていると、画廊の看板によく出合った。友人知人には、絵や書、刻字等に造詣が深い方が多い。近年は上野の美術館よりも、銀座の案内状が増えた。先日も松屋の先の、「メルサ」の画廊に来たばかりだった。
 一人の時は、銀ブラを楽しむゆとりはない。つい時間が気になり、急ぎ足で歩いてしまう。同じ場所でも、歩く速さによって眺める風景が異なることに気付かされる。心にゆとりがあると、それまで見えなかったものがよく見える。 
 銀座は、やはり趣がちがう。にわか作りの新宿や池袋にはない品格が感じられた。どの店も、一流であるという誇りがあるからであろう。内外のブランドの店を覗くと、目がくらむような高級品のまばゆさに圧倒され、そそくさと店を出る。目を見開きながら歩いていると、ビルの入り口に、「万葉集かな展」の張り紙が目に飛び込む。四十代のころ、「万葉集」の講座を受講したこともあり、自然と足が向く。
 広くもない四階の会場は、閑散としていた。若者は、自分に関わりのないものには無関心かと思っていたら、息子が私よりも先に芳名帳に記す。横文字の世界で仕事をしていても、興味があるのか凝然と見入っていた。私も水茎のしたたる色紙や、掛け軸に見とれる。活字ばかり見慣れた目には、水茎の雅(みやび)やかさは、見あきない深いものがあった。毛筆が日常生活であった、古(いにしえ)人に思いをはせ、日本の文化の素晴らしさを、改めて誇りに思った。一筆の書もたしなまずに、馬齢を重ねて来た人生を大いに悔いた。
 
 そぞろ歩いているうちに、八丁目の「銀座カフェーパウリスタ」に着く。店内は、学生風の若い人たちで賑わっていた。明治、大正の文人たちがこよなく愛したというだけあって、落ち着いた温かい雰囲気があった。「銀ブラ」の語源は、この店に一杯五銭のコーヒーを飲みに行くことだったという。
「銀ブラは、銀座の『銀』とブラジルコーヒーの『ブラ』をとり、慶応大学の学生だった、小泉信三、久保田万太郎、佐藤春夫たちが作ったことばだと、言われています。三田の学生の間で流行ったそうですよ」と、息子が言う。
 二階の女性専用の部屋は、ブルーのストッキングをはくことにより、「女性の解放と自立」を主張した、平塚雷鳥を中心とする女流文学者、与謝野晶子、田村俊子、高村智恵子たちが集まり、機関誌『青鞜』を発刊したという。日本初の女性たちの文芸誌であった。九月一日で百周年を迎え『青鞜』を再評価する催しが、各地で行われることを新聞で知る。その動きは、海外でも広がっていると聞く。いま、二階はどうなっているのかと上を見上げる。
 コーヒーを口にした息子が、「砂糖なしでも十分美味しいですよ」と、私にすすめてくれた。コーヒーの香りは、ゆったりと私を寛(くつろ)がせてくれた。
 心を和ませながら、「今日は来てよかった。息子の言うようにたまには心を潤す時間も大切である」と、胸中に感謝が湧く。 
 しかし、息子はなぜ銀座に詳しいのか、気になっていた。息子の学部は、日吉や三田からは遠かった。卒業後も関西、アメリカと銀座とは無縁のはずだ。いまでも、お正月もお盆休みもない。土曜日も日曜日も出勤し、深夜はおろか朝の九時までの勤務を余儀なくされている。過労死を案じてきた私は、息子に訊かずにはいられなかった。
「音楽と絵を描いているアーティストの友人が、銀座に住んでいるんです。その友人の友だちたちと、定期的に集まっているのです。どの人も一緒にいるだけで、心が耕されるようなこころざしの高い人たちばかりですよ」
「素敵なお友だちがいるのね、皆さんに一生お友だちでいたいと思われるよう、自身の心を磨くことも忘れないようにね。そして、幸せをくださる皆さんに感謝しなくてはね。感謝の心は謙虚さですから、どんな人にもその心を忘れないようにするんですよ」
 疑問が解け安堵した私は、堰(せき)をきったようにことばが噴きでた。息子とは大学入学時から別に暮らしてきた。勉強量が多く遠いため通学は不可能だった。社会人になっても、不規則な仕事のため職場の近くに住む。年に何回か帰宅しても、ゆっくり会話する時間はなかったからである。
「母はピアノが弾けたらといつも思うけど、あなたはピアノが弾けるのですから、時間ができたらピアノでも弾いて、心を潤す時間を作ったらいいわね。中学生のとき、いつも言っていたでしょう、大人になったらグランドピアノを買うと。いのちを削って生きるばかりの人生では、つまらないわね。お料理を作ったりピアノを弾いたりして、心のおしゃれも大切にしてね。お医者さんばかりのお友だちかと思っていたら、アーティストの素敵なお友だちがいて、よかったわね。お友だちはお宝ですから、大切にするんですよ」
 向かい合って座った息子に、母親としての思いを心ゆくまで話す。息子は心身に刻み込むかのように、静かに耳を傾けていた。
 カフェを出ると、空はどこまでも青くまぶしかった。昼下がりの銀座は、人がふくらんでいた。並んで歩くのを遠慮し息子の後に下がる。久しぶりに見る息子の背は、厚みを増していた。それは、人間としての厚みのように感じられた。眺めていると遠い日が甦り、「よくぞ生き」ていてくれたと、独りごちる。 
 困難は、私の胎内からはじまり、成人するまで続いた。情け容赦なく次々と試練がおそった。そのたびに「どんなにしても生きさせねば」と、極限の緊張を強いられるなかで、希望だけが明かりだった。母親の私が、困難を嘆き悲しんでいたら、私たちは絶望のふちに追いやられてしまうからであった。
 もちろん、押し寄せる困難をのり越えたのは、本人の忍耐力と精神力に他ならなかった。それはまた感謝でもあった。息子の誕生日には、毎年手紙を書くことにしている。だが、私の私情を記すことはない。過労死をしないための、健康と食事等の自己管理が主であった。当日の夜、息子からメールが届いた。
「暑い日に、大変な思いをしてぼくを生んでいただき、ありがとうございます」と。いかなるいのちも、自分で親を選ぶことはできない。私は人並みな体を持ち合わせず、兄弟さえも生んであげることが出来なかった。それは、母親としての負い目でもあり、生涯とりさられるべくもない。そんな愚かな母親なのに、息子は常にことばを尽くして私を励まし、細やかな気遣いを怠らなかった。その優しさは、私の明日を生きる力となり、人生をも支えてくれる。
 さまざまな困難と苦しみの涙が、本人の精神を鍛え、生きるということを深く学んだからであろう。おかげで私も、人間のいのちの強さを学ぶ、素晴らしい時間をもらう。
 それにしても、「生」のみを見つめ夢中で生きてきた先に、このような至福があろうとは、当時どうして想像できようか。
「こうして生かされている、いのちがあるということは、なんて素晴らしいことだろう――」
 私の心は、充実感で満たされ、静かな幸福感に包まれる。息子の後ろ姿が、より大きく見えた。

 既に太陽は、西に傾いていた。
 これから、仕事場に寄って行くと言う息子と、新宿で別れた。
 久しぶりに、心ゆくまで会話をし、ゆったりとした時間を過ごすことのできた今年の母の日は、私の人生のなかで決して色褪せることのない、一ページとなって生き続けるにちがいない。

 ケータイの万歩計は、一万歩を越えていた。