母と娘 
               中井和子

 私を『おねえさま』と呼んで付き合ってくださるT子さんは独身で、お母様と二人暮らしであった。年齢は私より二回りもお若い。
 お母様の指図で、六歳から前髪を切ったことがないという。髪を後ろで一つに束ね、長さは肩までと決められていた。口紅を注(さ)すと、やはり、お母様から『赤い』と叱られるので、と、いつも素顔に近い薄化粧である。それでいてお美しいのだった。
 そして、九十三歳になられたお母様を、十年前から自宅介護でがんばっていらっしゃった。
 以前、T子さんからその気ぜわしい毎日のようすをお聞きした折、私が労(ねぎら)いのことばを口にすると、T子さんは、
「母が幸せ、と思ってくれれば、それでいいのです」
 と、たんたんとおっしゃった。
 私の場合、母親に対しては反抗的に距離をおいて生きてきたので、T子さんのお母様への心優しいことばは、私の胸に刺さった。
 私は、T子さんのお母様にお目にかかる機会はなかったが、お幸せな方であると思った。
「最近では私の姿が見えないとたいへんなの。母はベッド脇で私の手を握っているの、もう、どこへも出かけられない」
 と、受話器の向こうからT子さんのため息が聞こえてくるのだった。

 T子さんは書道家でいらっしゃる。毎年、東京の銀座でお仲間と書展を開くそうで、それを楽しみに、そして励みにもして、日日精進を怠ることはないと、伺っていた。その精進の時間こそ、T子さんにとっては、すべてから解放される貴重な時間なのであると、推察する。
 私とT子さんの出会いは、三十年も前になるのだが、T子さんが市中で個展を開かれたときである。
 たまたま、その書展の前を通りがかった夫と私は、ふらりと立ち寄ったのであった。
 美しい古典的なかな文字から、力強い漢字の書、書き手の心情が投影される近代的なデザイン書など、数十点の作品を一つ、一つ鑑賞した。そのとき、我が家の狭い壁に飾れるような小さなデザイン書の額を買い求めた。
 書の力強く、デフォルメされた『くちゃくちゃいきる』の文字が私をとらえたのであった。 
 それが縁でT子さんとのお付き合いが始まり、今に続いている。

 数か月前(二十六年の秋)、東京勤務であった弟さんが定年退職で帰郷し、ご夫妻で同居されるようになった。T子さんから、こんどは、外出もできるようになりましたという、電話をいただいた。T子さんのお話によると、弟さんの奥様もまた、お優しい方のようで、『類は友を呼ぶ』のたとえの感を私は抱いた。そして、T子さんもどんなに心強いことかと、喜ばしく思った。
 ある日、私はT子さんと久しぶりにお会いすることになった。
 しかし、その約束の日の朝、
「今日はお約束していましたが、母が亡くなりましたので……。また、落ち着いてから連絡します」
 と、T子さんの弱弱しい涙声の電話があった。
 後日、T子さんのお手紙が入った香典返しが送られてきた。お手紙の中に『すぐ、髪を切ってきました。母とお別れするためです』
 私は、その文字を見つめながら、お母様の束縛からのお別れなのか、あるいは、お母さまの慈愛の象徴でもあったような前髪を切っての、単なるお別れなのか、私はすぐ後者であると、理解した。
 世の中には『家族ほどしんどいものはない』と、家族愛を軽蔑するような言動をする人がいる。その家族がいたから『あなた』が存在しているのにー。私は、人間愛は家族愛から始まる、と思っている。そして、反抗期ならいざ知らず、家族を疎むような言動は、つまりは家族への甘えの裏がえしに思われる。
 
 お母様の百か日法要を済まされたT子さんと、ある日、街の喫茶店でお会いした。
 T子さんの短くなった前髪は、ふわりと額にかかり、お顔がいっそう優しく美しい。
 そして、たんたんとおっしゃる。
「先日、お会いするはずの前の晩、私は母のベッドでいっしょに寝ていたのです。私が目を覚ましたら母は目を閉じたままで、すぐ先生に来ていただいたのですが……」
 私は絶句した。娘に添え寝をしてもらい、別の世界へ旅立てるなど、お幸せな方であったのだ。
 こんどは、T子さんを支えてくださる方の出現を切に祈りたくなる。もちろん、いままでには、いくつかの恋のお話もお聞きしていた。
 T子さんは一つ大きく息を吐くと、
「先日、私は精密検査を受けてきたのですけど、内臓に癌らしい陰(かげ)がみつかって、こんど放射線をかけることになりました」 
 私はことばを失い、心の中で叫んでいた。
『おかあさん、T子さんを助けてあげてください。そちらにまだ連れていかないでください!』と。