ひだまりのような友
                  山内美恵子

 二〇一三年五月、最後の日付が数時間で終わろうとしていた。外出から戻り、遅い夕食を作っていると、バッグに入れたままのケイタイが、気になった。
 私は外出すると、バッグの中のケイタイをそのままにして、台所に直行することが多い。しばしばお電話やメールをくださった方がたに、ご迷惑をおかけしては、深く恥じ入っている。
 料理の手を止めると、案の定メールが入っていた。思いがけないメールに息をのんだ。メールには、ただならぬ気配が漂っていたからである。
「母に癌が見つかり、病状が思わしくないので、お知らせさせていただきました。母から大切なお友だちだと聞いておりますので」
 突然のメールは、友人W子さんのお嬢さんからであった。それは、W子さんの「いまわ」を告げるものだった。ケイタイが気になったのは、虫の知らせだったのである。
 時計は夜の八時を回っていた。W子さんの住まいは横浜市である。タクシーを飛ばせる場所ではない。すぐに飛んで行きたい衝動を抑えながら、ひたすら祈った。返信のメールを打つ手が、小刻みにふるえる。
 翌日の朝、再びメールをいただいた。
「母の容態が急変し、今朝亡くなりました。とてもお会いしたがっていましたので、大変残念です……」
 祈りは届かず、私は少なからぬ衝撃を受けた。放心の態で立ち尽くす。新宿でお会いして、まだ半年も経っていなかった。彼女は小柄な女性だったが、私よりもはるかに健康に恵まれていた。彼女が先に逝くことなど、夢にも想像したことがなかった。
「仕事を辞めたので、これからはいつでもお会いできます―」
 昨年の十一月、弾むようなお声の電話に、
 「すぐにお会いしましょうね!」
 私は言下に答えた。なぜかこの時、一方的なことばが私の口をついて出た。一瞬、彼女は戸惑いながらも即座に快諾する。
 長年私たちは年一回、新宿でお会いするのを楽しみにしてきた。お互いの誕生日には、メールやカードを贈るのが習慣だった。四月八日がW子さんの誕生日である。今年もお祝いのカードとメールを送った。しかし、返信はなかった。胸中に不安がふくらむ。
 この頃、W子さんは病魔と闘っていたのだった。大学病院に行った時には、覆水がたまり癌の末期の症状だったという。最後にお会いした時、小さなお土産をお渡しすると、
「娘たちから、間食をするよう言われているのよ」
 明るい声でお顔をほころばせた。お会いした瞬間、心なしかお体が小さくなったように感じられた。お嬢さんたちが間食をすすめられたのも、母親の体の異変に気づいてのことであろうか。食事を共にした時は、自覚症状を訴えることはなかった。しかし、病魔は彼女の体を蝕んでいたに違いない。
 おしゃべりを楽しみ、お別れのあいさつをした時だった。私はまるで何かに操られるかのように、彼女の左手を両手で包み「お仕事を一生懸命なさったお手ですね。このお手には、ご褒美をあげてくださいね」
 そう言い言いながら、私は名残顔でW子さんの手のしわを、何度もなんども撫でていた。とても温かい手だった。
 またもや私は予期せぬ行動をしていた。彼女の都合もきかずに約束したのも、とっさのこの行動も、単なる偶然とはとても考えられなかった。私に何か、不思議な力が働いていたように思えてならなかった。あの時お会いしなかったら、私はさぞ後悔していたであろう。「早く会うように」と、促してくれた天の配剤に感謝した。

 私が最期のお別れにお伺いした時、W子さんは、ひつぎに納まっていた。無二の親友との、悲しい再会だった。
「眠るような安らかな最期でした」
 お嬢さんのおことば通り、彼女は大好きなバラの花に囲まれ、柔和な笑顔をたたえていた。今にも起き上がり、私に語りかけてきそうな気がした。
 もうお会いできない、と思うと涙がとめどなく流れ、嗚咽がこみあげる。お嬢さんが、私の背中を優しく撫でてくださった。人生の重荷をおろしたかのような、穏やかな表情の友に、涙ながらに語りかけた。
「W子さん、あの時お会いして本当によかったですね。最期に間に合わず、お許しくださいね。お優しいご立派なお嬢さんですね。これからは、お嬢さんたちをお見守りくださいね。私がそちらに行きましたら、また、たくさんお話ししましょうね-」
 そばでお嬢さんも嗚咽される。しばらく二人で慟哭する。
 深い悲しみに包まれながらの、最期のお別れであった。
W子さんとは、小学一年生での出会いだった。中学校では別々のクラスだった。だが、生徒会やその他の行事等でご一緒すると、誰もいない教室で、時間が経つのも忘れておしゃべりをした。
 その頃の私は、本と共に成長。内外の名作を読みあさり、鞄のなかには、三木清の人生論や、バイロンやゲーテの詩集が入っていた。少女の私にとって、プロの選び抜かれたことばは宝石箱だった。心をゆさぶられたことばに胸を高鳴らせ、彼女と熱く語り合った日の記憶が、今も立ち上がってくる。
 高校も別々だった。それでも今日まで友情は続いた。心に通じ合うものがあったのか、彼女とはなぜか気があった。二人とも未知への好奇心が旺盛だったからであろう。お嬢さんからは、「母によく似ていて驚いています」との、メールをいただきはっとする。
 彼女は、私とは比較にはならない苦難の人生を歩む。二人のお嬢さんを守るため、離婚を余儀なくされたからである。しかし、いかなる環境の中にあっても、決して弱音を吐くことはなかった。いつお会いしても、晴れやかな表情で前向きに生きていた。小柄なお体のどこに、そのような力がひそんでいるのかと思うほど、よく働く人だった。
「今の方が、心の自由があって幸せよ」
 満面に笑みをたたえながら、きっぱりと言った。お嬢さんたちが自立されると、海外旅行によく出かけた。かごの鳥の私は、そんな彼女をどれ程羨ましく思ったことか。
 W子さんは、ひだまりのような人だった。一緒にいるだけで、心の奥まで温かさが広がり、生きる力と喜びで充たされた。そんな彼女との豊潤なひとときは、私の至福だった。
 何事も前向きで、しなやかな心の持ち主だった彼女は、何でも話せる腹心の友であり、生涯の友でもあった。私はこれまで、どれほど精神的に救われてきたことか。
 人は人生の中で、この時を待っていたかのように、必要な時に必要な人との出会いが用意されているのだろうか。私はその時その時に、人生が用意してくれた、よき師よき友に恵まれてきた。どの方も人格的にも、精神的にも豊かな方だった。そのような僥倖の恵みがあったからこそ、私は充実した人生を送ることができたのかもしれない。
「素晴らしい友情を育てるのは、人生のさらなる幸せと喜びを見つけるもっとも確実な方法の一つである」と、ある作家は言う。
 良友は良書同様、生きる力を引き出し精神高めてくれるからである。生を受けて七十余年。結婚と同時に仕事を辞めて以来、折角取得したいくつもの資格を眠らせ、世に益することなく馬齢を重ねる。
 そのような学識も才能もない、一介の主婦に過ぎない私を、生涯慈愛を持って見守り励まし続けてくださった恩師や友人は、私の人生の最上の贈り物といっても過言ではない。いくら感謝しても尽きせぬ思いである。
 空海は「人は人との出会いによって人になる」と説く。老境といえども今後は、ささやかな目標に向かって、深くていねいに生きなければ、と改めて身のひきしまる思いがした。大いなる贈り物に恥じないように――。
 しかし近年、敬愛する師や、生涯の友人との別離が増し、涙の乾くひまがない。大きな喪失感に見舞われながら、私は贈り物の存在の偉大さを今さらながら痛感している。寂寥感も限りなく大きい。私の心にあいた穴が塞がる日はない。

 W子さんは、故郷会津の土になる。
 私は生涯、W子さんの温かい手の感触を、決して忘れはしないだろう――。