一口随想(一)
   星空の彼方
               水品彦平


 秋の夜の散歩は快適である。気温も適温で快適で心地よい。歩いている人も多くなってきて、行き交うときのあいさつも楽しい。
 今、その散歩も終わり、妻とわたしは家の前の小さな畑の脇で休んでいる。
 空を見上げれば、まさに満天の星である。暗闇の空にまばゆく瞬いて、手が届きそうなくらい澄んで、ハッキリ見える。
「今日は、一段ときれいに見える星ね」
 妻も感激したように言う。
 それにしても、こんなに近くに見える星でさえ、気の遠くなるような距離にあるというが、その先はどうなっているのだろう。星の彼方に果てはあるのかないのか。そして、それより何より、この宇宙の中の自己(私)とはいったい何者なのだろう。それこそ気になる。そう考えてきたとき、以前何度も読み返したことのある本の中の、以下のような一節を思い出した。

「……私たちは宇宙の内部で宇宙から分離してしまっているがゆえに、宇宙を知ることができる。(〜略〜)釈尊は知ることそのこと、すなわち宇宙内にあって宇宙から分離することそのことが、無知なる宇宙そのものの、不思議ないとなみであることを、やすらかに知ったのである。
 釈尊が自己自身において体験したのは、無明が明にいたる、すなわち無知が知にいたり、無意識が意識にいたる宇宙そのものの行為である。それは無明が知る者と知られるものとに自己分割する行為でもある。まことに不思議な行為であるが、しかしその行為には主体がない(空)。
 神とか私とかいう実体が意志して行っているのではない、だれがしているのでもない行為だったのである。ただ、無明が自己分割によって明になるということがあり、それが存在の行為である。それ以外には何ものもないと知ったときに、釈尊は智恵を完成し、苦悩から解脱したのである。」(『新しい宗教を求めて』真継信彦著)

 少し分かりにくい内容かもしれない。しかし、宇宙と自己(私)ということについて、何と示唆に富んだ一節であろう。
 作家でもあるこの本の著者の真継信彦氏は、ほかにも多くの釈尊・仏教関係の本を出しておられる。
 真継信彦氏によれば、釈尊は宇宙の万物について知ったのではなく(万物についての知識であれば、釈尊は現代諸科学者のだれにもおよばない)、 存在の由来を自身において知り、知ることそのことの成り立ちを知った、というのである。さらに釈尊は、私たちには何ら実体がないことを確証し、泡に似て統一された自己自身を知った、という。 その上で、ついに釈尊は智恵を完成し、苦悩から解脱へと至った、というのである。
 この本には、ほかにもまだ多くのことが書いてあるが、今のわたしには一応これでいい。手前勝手になんとなくだが、少し分かった気になってホッとしているのである。
「おとうさん、……本当にすばらしい星ね。わたし、今、夢心地よ」
 と、冗談交じりにいう妻の声に、わたしは星空の彼方よりフッと我に返った。