法要の茶会    
                   石川のり子 

 8月下旬の日曜日、沢井先生の一周忌法要の茶会が東向島の千穂庵で催された。
 後継者の若先生からは、「暑い時期ですので、みなさまは洋服でお出かけください」と文書での指示があったが、茶道をたしなんでいる出席者はほとんど絽(ろ)の着物を、涼しげに着こなしていた。私も地味な赤紫の無地に、黒の帯を締めた。
 若先生は次女と同年で40代半ば、70年続く表千家流の名跡を継がれ、先々代(祖母)からのお弟子さんをも引き受けられて、この1年間孤軍奮闘されていた。ようやく社中だけの法要茶会に漕ぎ着け、肩の荷もいくらか下ろせるのではなかろうか。

 ちょうど1年前、私を千穂庵に紹介してくださった書道家のIさんから、先生の容体が芳しくないので次回のお稽古はお休みですと、メールをいただいた。先生はお酒が好きで、少々酒量が過ぎ病気になったのだと、お稽古に通っているうちに耳に入ってきていた。けれども、茶席では和服に袴(はかま)姿で凛々しく座っておられたので、気がつかなかった。
 私がIさんに連れられてはじめて千穂庵を訪れたのは、4年ほど前だった。茨城県に引っ越し、茶道の稽古をしたいと思っていたところ、Iさんがご自分の先生を紹介してくださったのだ。
「男性で、何でもよくご存じで、立派な方ですよ」
 ほぼ私たちと同年代とのことだったが、黒々とした髪、色白の艶やかな顔に上品な笑みを浮かべていらっしゃる姿は若々しかった。私はIさんにも説明していたが、改めて、
「子育て後、夫を見送り、何年もブランクがあります。最近記憶力が衰えてきていますので、迷ったのですが、ご指導をお願いいたします」
 と、あいさつした。先生は、
「心さえあれば、大丈夫ですよ。いつからでもいいです。お出かけください」
 と、気さくにおっしゃった。
 先生は、自宅からお稽古場の千穂庵までは自転車で通い、遠出をするときは奥様も一緒だったが、車を運転されていた。病気など感じさせなかった。

 私は、このお稽古所に通うようになって、いろいろ学ばせていただいた。
 ことに、月1回の研究会では、普段の稽古ではできない花月(かげつ)、且座(さざ)、茶カブキ、廻り炭、廻り花、一二三(いちにさん)、数茶(かずちゃ)などの七事式を勉強した。ある程度の修練と5人以上の人数が揃わないとお稽古ができないものだった。ことに「花月」などは、「花月百篇おぼろ月」などと言われるくらい、繰り返し練習しても理解できないほど複雑だった。私はいまだによく分かっていない。
 新年の初釜のお茶事は言うに及ばず、茶飯釜や百花園のお茶会など、学ぶことが多かった。先生は私のような新参者でも先輩の方々と同等に扱ってくださった。
 また、特別研究会では、茶杓作り、風炉の灰の押し方の講習会もやっていただいた。

 当日、私は10時から始まる一席目に申し込んだ。参加者の中には師弟関係が30年以上という年配の方もおられて、さりげなく語られる思い出話に、立派な先生の指導を受けていたことに感動した。
 法要茶会はそれぞれ10数人のグループで、4席に分かれていた。
 仏壇の横には大きな生花が飾られ、僧侶の読経に頭(こうべ)を垂れて、お焼香をすませた。その後、茶室に案内され、床に掛けられた円相の軸を拝見し、懐かしい大先生のにこやかな笑顔の写真に慰められた。
 12人の席入りがすむと、若先生が「みなさまに日頃の感謝の意を込めて」とおっしゃって、一人ずつに、薄茶を点ててくださった。その姿は大先生の若いころにそっくりだと話す方もおられた。大勢の弟子を任されて、重圧を感じながらも、自ら家元での稽古に通い、大先生に負けないくらい勉強されている。生前によく使用したお茶碗でお茶をいただき、一つ一つのお道具を拝見していると、何も変わっていないこの茶室で、大先生だけいらっしゃらないことが信じられなかった。
 退室の際、「若先生は立派です。私はもう少しお世話になりたいと思います」と、心でつぶやき、遺影に手を合わせた。