「偉大な人生の師」関口富左先生
               山内美恵子


 平成二十五年一月、卒業生がこよなく敬愛し誇りでもあった、母校の学長を務められた関口富左先生が、九十九歳の生涯を閉じられた。三月の百歳の賀寿を待たずして。
 先生は終戦直後、女子教育の遅れを取り戻すため、三十四歳の若さで「郡山女子専門学院」を開設。後に、日本最初の短期大学の一つとして、「郡山女子短期大学」家政科を開学された。私はその十期生である。
 初代学長に就任して以来、先生は付属幼稚園、付属高校、女子四年制大学、大学院を開学された「郡山開成学園」の創設者であった。長年日本私学会や、教育界の重鎮として、県や国の要職を歴任され、藍綬褒章、県文化功労章、勲三等宝冠章等の勲章を受章された、実に偉大なお方であった。
 生涯女性教育の向上に情熱を注がれたお姿は、NHKの大河ドラマ「八重の桜」の新島八重を彷彿させる。八重は幕末の会津に生まれ育ち、会津魂を胸に激動の時代を生きた。後に、同志社大学を設立した新島襄の妻となり、女性の教育に力を尽くしたからである。
 私も八重と同じ会津で育った。藩校日新館教育「ならぬことはならぬ」の精神は、脈々と受け継がれてきた。だが、藩校に入れるのは男子のみで、「女に学問は要らない」の風潮が強く、わが家の父も例外ではなかった。
 そんな父が姉の結婚式の前夜、「このような嫁入り道具にするか、他のものにするか」と当時高校生だった私に質した。「その分を進学にあててほしい」私は即座に答えた。
 しかし、いざ進路を決める段になると、父の表情は苦渋にみち、快い返事は得られなかった。私に賛意し父を説得してくれたのは、既に公務員として働いていた次兄だった。
「これからは女性も社会で活躍する時代が来る、資格の取れる大学に行かせてはどうか」
 兄の意見に父もようやく納得した。だが、県内で二年間という条件がついた。本が好きだった私は、国文学を勉強したかった。それを口に出せば進学の道は閉ざされた。当時は女性の進学など、特別なことがない限り許されなかったからである。
 私は先ず入学し、次の段階を模索しようと考えた。だがそれは、入学式に臨み一変した。知的であふれんばかりの気品をたたえた、若き学長の並々ならぬ教育への情熱に触れ、震えるような感動を覚えたからである。
「何という素晴らしいお方であろうか」
 私は大きな希望と喜びで満たされた。
 付き添ってきた父も同じ思いだったのか、
「福島県にも、実にりっぱな女性がいる。この学校なら安心だ。今後、この学校はもっと発展するに違いない」
 入寮する私に感慨深げに語り、帰って行った。物静かな父は、粗野な立居振る舞いやことばを好まない人だった。洗練された貴婦人のような学長の高雅さと、教育への高い志を自分の目で確認し、安心したにちがいない。

 私が二年間生活した「家庭寮」は、集団生活の実習と研究の場として建てられたものだった。上級生と下級生六人の共同生活は、さながら家庭生活の実習の場でもあった。食事も弁当も、自分たちで作らなければならなかった。御飯さえ炊いたことがなかった私は、全てが新鮮で学びの日々であった。
 関口学長からは「家政学」を教わった。家庭の大切さや女性として人間としての、上質で豊かな知識や教養等、深いお導きをいただいた。それらを、学長ご自身が身を以ってお示し下さった。先生は日本女性のすべての美質と、豊かな知性とふくよかな感性を兼ね備えた、学殖豊かな人格者であった。私は先生の授業や寮生活から、真の人間としての心の豊かさと、生きる力をしっかり育んでいただいた、と自負し今なお感謝している。
 当時は学生の人数も少なかったせいか、学長は母親のような温かく深い愛情を注いでくださった。そんな先生を私たちは、親愛の情をこめて「学長先生」とお呼びしていた。
 東京でお育ちの先生は、良家のお嬢さまが学ぶ大学のご出身だった。お召し物、話し方立居振る舞い全てにセンスが光り、お育ちの良さがうかがえた。私たちにもご自身のように良家の子女のごとく育みたい、とのお気持ちが強かったのか、「良家の子女」ということばをしきりお口にされた。 
 先生は、「教育学」の博士でもいらした。卒業後お会いした折、息子が在学している大学が話題にのぼった。「私も慶応義塾大学で、博士の学位を取りましたのよ」と、知的な目元を輝かせおっしゃった。
 やはり先生は、人の長になられるべくしてお生まれになられたお方であった。戦後の混乱のなかで、「女性の地位の向上」への高い理念を抱き、三十代で学校を創設するなど、凡人にはとても考えられないからだ。その才知と実行力には敬服するばかりだった。
「『博士論文』はご本となり、卓見に満ちたものでした」と、創設最初にご卒業された大先輩が、私に教えて下さった。
 先生は、優れた教育者であると共に研究者でもあった。家政学に「哲学」を求めて、「人間守護」の理念による「新しい家政学」を確立された。日本の女性教育への広い視野を見通した、先生ならではの洞察であった。
 その理念に基づき、昭和四十一年東北初となる、家政学部四年生「女子大学」を、後に、「大学院」を開設された。先生の教育への情熱は、とどまる所を知らなかった。そればかりか、非凡な感性をお持ちの先生は、私たちに知識のみならず、豊かな心を育むための、感性の教育にも力を注いで下さった。
 一流の音楽家や藝術家を招かれ、「音楽会」や「芸術観賞会」を開催して下さった。それは今なお、学園の恒例行事となっている。「生活芸術科」や「音楽科」を増設され、それに伴い「芸術館」をも建設。現在大勢の卒業生が、芸術の分野で活躍されている。
 学園長として、いかに芸術や文化を大切にされてきたかがうかがえる。すぐ役に立つ知識よりも、将来を見越しての教養を大切にされたのである。心を豊かに育む「人間教育」こそ、本来の大学教育ではないだろうか。常に本物に触れさせ、心を育んで下さった。
 いつお目に触れても、先生は頭の下がるような、ご苦労など全く感じさせず、悠々としてエレガントで、全身からは教育への情熱が迸っていた。それは、ご高齢になられても少しも変わらず、大人(たいじん)の風格と気品をあふれさせ、神々しいばかりであった。 
 近年は、郡山開成学園名誉学園長・名誉学長となられ、予約なしにはお目通りもかなわないと伺っていた。学園で働く職員の方々でさえ、先生は雲の上のお方であり、そうやすやすとお近づきにはなれないほど、偉大な存在でいらっしゃった。 
 しかし、私たち卒業生には、そのようなことなど微塵も感じさせることはなかった。予約なしで先輩方が突然学園をご訪問された時も、先生は「特別なお方」と告げられ、大層お喜びになられ、学長室でお食事を共にされたという。私の同期生が十六人でお訪ねたした時も、昼食を共にされたとお文を下さった。
 それは、卒業生のどなたがお訪ねしても、同じであった。私たちのどんな小さな喜びも、母親のように全身でお喜びくださる、温かく愛にみちた慈母のような師であった。
 ある時、母を亡くした友人が訪ねると、
「あの時は、何もしてあげられずごめんなさいね」
 先生は友人の頬を両の手で包み、優しく撫でながらお眼を潤ませたという。そのお姿はまるで母親のようであったと友人は語る。
 あまたの要職にあり、多忙を極めるなか、先生は私のような者にも、時々美しい墨書のお手紙を下さった。その心配りには、畏敬の念で頭を垂れた。拙著の上梓や、「日本随筆家協会賞」の受賞をことのほかお喜びくださり、大量の拙著をお買い上げいただいた。   
 その一冊一冊を、上質の美しい包装紙でお包みくださり、先生の「誕生日を祝う会」で学園出身の先生方にお配りいただいた。卒業後も、これほどまでに深く温かいお心を寄せて下さる、大学の長を私は他に知らない。
 人格形成の途上で、誇りに思う高邁な恩師に出会ったことは、大きな恵みであった。卒業生の誰もがそう思っているに違いない。先生の存在は卒業後も、生きる上でどれほど励みになってきたことか。私たちの大きな生きる力でもあったからである。
 先生のお姿から私たちは、人間としての崇高な精神や、人としての美しさ、生きることの素晴らしさ等、多くを学び得た。私が敬愛し教えを受けてきた恩師のなかでも関口学長は、これまでの人生で出会った、最も偉大な恩師であった。
 先生の訃は大きな衝撃であった。先生からの美しいお手紙は、「最高のお宝」として大切にしてきた。時間が止まったような虚脱感のなかで、先生のお手紙を静かに広げた。
 そっと手を触れると、先生のあたたかさが胸のなかに広がっていった。『教育は愛なり』を信条とする先生の下で学ぶことができた幸せに、感謝があふれ涙を誘う。関口富左先生こそ、私の人生に差し伸べられた、神の恩寵のように思えてならなかった。
 県に奉職したものの、結婚と同時に仕事を辞めた私は、世に益した人生ではなかった。社会の片隅でささやかに生きてきたからだ。しかし、偉大な恩師を「人生の師」と仰ぎ見つつ生きてきた日々は、知らぬ間に私の心が耕され、計り知れない幸いをもたらす。先生との邂逅は、私の人生にとって意味のある出会いだったのであろう。関口学長のご活躍を亡父が知ったら、さぞ目を細めたにちがいない。

 九十九年のご生涯を、女性の教育に尽された先生のお姿は、惜しんでもなお余りある、見事なご生涯であった。頭を垂れずにはいられない。先生の偉大な功績は、日本の戦後の「女性教育」の一時期を語ることとなり、後世に関口富左の名を残すことであろう。
 先生が愛してやまなかった、在校生と卒業生に注がれた大きな愛は、生涯私たちの胸中に生き続けるにちがいない。今後も先生は夫君の副学長正先生と共に、慈愛に満ちた眼差しで開成山の空から、あまねく愛の光を注がれ、私たちをお見守り下さるであろう。
 
 関口富左先生が、百歳をお迎えするはずだった弥生の空は、青く澄みわたりあふれんばかりに春の光が満ちていた。いかにも、偉大な先生を称賛するかのように――。