今に続く道  ー中学時代の恩師
                   山内美恵子

 平成二十年七月、私は面識のない方から一通の書状を受け取った。訝(いぶか)りながら開くと、わが目を疑い息を呑(の)む。その信じがたい文面は、私のなかに深い悲しみを誘い、時を止める。

 去る六月下旬、私は中学時代の恩師の三周忌に備え、ささやかな供華料と、上梓(し)して間もない二冊めの拙著を、同居されているお嬢様宛(あて)に送付した。だが、それを受け取られたのは、恩師の亡きご主人様の甥御様であった。
 返書は、お嬢様も既にお亡くなりになられた、という内容だった。
「何ということだろうか……」
 足が震え、私はその場に立ち竦(すく)んでいた。 先生のご葬儀の日、お嬢様は余命のないガンに冒されていることを、ご親族に打ち明けられ、母親のあとを追うかのように、亡くなられたという。四十代で未婚だった。
 最期(ご)を看取られた甥御様は、闘病の様子を記した冊子をも同封してくださった。読みながら、どんな力をもっても打ち消すことのできない死と、ガンの闘病の壮絶さに、私の涙は止まらなかった。
 恩師一家の悲劇は、まだ終わることはなかった。両親と姉を失い、ただひとり残された妹様の行方が不明であるという。
「幸せだった叔母の家族に、一体何があったのだろうか?……」
 書状には、甥御様の深い悲嘆と、苦悩の胸のうちが、惻惻(そくそく)と綴られていた。
 愛する家族を喪(うしな)ってしまった、妹様の堪えがたい悲しみが、私の心を包み涙があふれる。私だけの心の中に、この悲しみを封じておこう。その一方で、誰(だれ)かに伝えずにはいられない、という思いが私の中で鬩(せめ)ぎあっていた。
 私は夢遊病者のように立ち上がり、悄然と机の前に座った。窓の外は、真夏の強い日差しが照りつけていた。気がつくと、私は級友に筆を執(と)っていた。
 驚いた級友から、電話があった。
「私たちがあまり悲しむと、先生がもっと悲しまれるから、自分を見失うことなく、自分の生き方を語れるような人生を、私たちが、お嬢さんたちの分も生きていかなくては」
 と、悲しみの渦のなかにいる私を、ひきだすかのように静かな口調で言った。そのことばが、心を鎮め、私は平静さをとりもどす。
 中学時代の三年間、私たちを担任してくださったのが、二十代の女性教諭、K先生だった。
 高校を首席で卒業されたK先生は、明敏な頭脳と豊かな感受性をお持ちで、生徒の人望を集めていた。お背が高く、知的でおしゃれな先生は、毎日素敵な洋服を召され、とても魅力的だった。まばゆい光を放つそのたたずまいは、少女の私をも魅了してやまなかった。
 K先生を敬愛しながら、私は躍動感にみちた、充実した三年間を過ごした。
 授業が終わると、先生のお手伝いが私の日課だった。謄写版の横で、先生が印刷される紙を捲った。試験の問題もあった。だが、授業でおおよそ理解していたので、あえて覗(のぞ)き見たいとも思わなかった。通信簿に数字を記入したこともあった。郵便局にお金の出し入れに走ったり、先生が手の回らない、雑用のすべてをさせていただいた。
 不思議だったのは、私への級友たちの眼差しが、温かかったことだ。妬む級友は皆無で、皆当然のごとく思ってくれていて、私の心は軽かった。
 先生のお手伝いのほかにも、学級や生徒会の仕事があり、下校はいつも暗くなってからだった。人通りの少ない夜道には、決まって待ち伏せしている男子生徒があり、恐怖のあまり毎日脱兎の勢いで帰宅した。母に話すと、それ以来、家の者が迎えにくるようになった。
 奥手の少女だった私は、異性にも恋にもまったく関心がなかった。私の心を満たしていたのは、読書と書くことだったからである。
 先生の本箱から、読めそうな本をよくお借りした。家には教師だった伯父の本や、父や兄が購読していた月刊誌があった。特に『文藝春秋』が好きで、有名人の書いた随筆を読むのが、私のひそやかな楽しみのひとつだった。
 次第に読むだけでは飽き足りず、その随筆を真似て、日記代わりに綴るようになった。それをK先生は、嫌なお顔もされずお読みになられ、感想を書いてくださった。未熟な少女にとって、敬愛する先生の人生観や生き方は、本以上に学ぶものがあり、どれほど私の書く力となったことか。
 卒業式の日、式が終了し教室にもどると、先生が私を別室にお呼びくださった。
 私の三年間のお手伝いを労われて、高校の国語の先生をご紹介くださった。
「今後は、そちらの先生にノートを見ていただき、書くことを続けなさい」
 そう静かにおっしゃると、知性を湛(たた)えた大きなお目を、何度も何度も閉じられた。私の目からも熱いものがどっと溢(あふ)れ、別れ難い寂寥感に包まれた。あの日の光景が今なお、くっきりと蘇(よみがえ)るのだった。
 
 卒業してもK先生は、変わらず私の成長を見守ってくださっていた。私の書いたすべてのものをお読みになられ、折に触れてお手紙をくださった。
 ある日、これまでとは異なる、厚みがある封書をいただいた。それには、私への感謝のことばと、畏敬の念がちりばめられていて、私を驚愕させた。別紙には、私がこれまでお送りした、随筆や俳句の小著や作品集等の題名が、整然とまとめられていた。
 それはまるで、永遠(とわ)の別れのことばかのように――。
 その封書こそ、別れのおことばであったと知ったのは、先生の突然の訃報を耳にした時である。
 以前より、ガンを病まれていらした先生は、余命のないお体にむち打たれ、渾身の力でお別れのことばを、認められたのであろう。
 先生は、七十七歳の生涯を閉じられるまで、愚直な教え子を愛しみ、半世紀にわたり深い愛をもって、私をお見守りくださったのである。
 これまで私は、大勢の恩師に支えられてきた。だが、これほど温かい慈愛で、長きに渡り明かりを灯し続けてくださった恩師は、稀有であった。
 K先生は、お手伝いや書くことを通して、少女の私の心の窓を大きく開き、より広い世界へとお導きくださったのだ。
 先生が開いてくださったその窓こそ、私の今に続く道であり、書くことの原点でもある。今日あるのは、K先生のおかげにほかならない。私の人生のなかで、最も自分が耕され、成長した時期だったからである。
 それだけに、先生ご一家の悲劇は、ことのほか切なく、私の胸をしめつけるのである。私の魂のみなもとをも喪ったような、切なさを覚えずにはいられないからである。

 その夏の終わり、気がかりだった先生のお墓を訪ねた。
 古色蒼然たるお寺の側で、先生は永遠の眠りにつかれていた。墓誌に刻まれた、お三方のお名まえを目にし、私の胸は痛んだ。
 墓前に私は、先生がお目にされることのなかった、二冊めの拙著をお供えし、線香を手向けた。しばらくひざまずき、顔を上げると、一匹の揚羽蝶が舞っていた。
「先生……」
 私は思わず、子どものような声を発し、蝶の姿を目で追った。しかし、いつの間にか、蝶の姿は消えていた。
 一瞬のできごとだった。
 高く澄みわたった、故郷の秋の空を見上げ、私はもう一度、先生のお名まえを呼んだ。
 再び、蝶が現れるような気がして。