命の価値         
           羽田 竹美

 人の命とは、どこからが命で、どこまでが命なのだろうか。
 大切だと言われている命が今、軽んじられている。戦争でもテロでも、一般社会に於いても、幼い子や高齢者が無残な死に追いやられている。
 先日新聞に、アメリカで行われている、ES細胞(ヒト胚細胞)の人体臨床実験の記事が出ていた。ヒト胚(受精卵)を研究用に使用して破壊する。この研究は脊髄損傷患者の治療に役立てるためにだそうで、アメリカではこの使用を最終的に承認したという。
 受精した段階で生命の誕生となるというのが一般論である。私もそう思う。けれど、この尊いはずの命が誕生したとたんに破壊されてしまうのである。この命は単に薬の原料にすぎなくなる。原料としての受精卵が作成されている。命を単なるものとして研究用に作成したり、壊したりするのは、道徳的に決して許されることではないと思う。
 また、これは日本の病院関係者から聞いた話であるが、不妊治療をしている患者の受精に成功した数個の卵子から、一つだけ選んで体内にもどすという。残りの受精卵は余剰胚として、研究用に使うのだそうだ。これは医学の進歩に貢献するために医学生や若い医者たちの勉強に役立てるという目的で、ものとして取り扱われる。
 しかし、余剰胚といわれているこの受精卵は、誕生したばかりの命なのではないだろうか。せっかく誕生した命が余剰胚として、ものとして取り扱われるのはあまりにも哀れである。選ばれて体内にもどされ、赤ちゃんとして祝福されて生まれ出る命と、余剰胚として研究に使われ、使用後はゴミとして捨てられる命ではあまりにも差別が大きいのではないか。 この考えかたで言えば、命とは、受精した瞬間から生命の誕生ではなく、母体の中である期間育った段階から命というのだ、という説になる。中絶についても同じに言える。妊娠三か月までは中絶を認める法律とは、なんの根拠があってこの時期なのだろう。人間の形になっていないからか、小さい胎児は体の外に出しやすいためなのか。だが、いくら小さくても胎児はお腹で成長しているのである。これは命であって、ほかの何ものでもない。
 
受精によって誕生した命の価値はどんなものでも平等でなければならない。大切でない命など絶対にあってはいけないのである。 
 現在、脳死がヒトの死である、と法律によって決められ、臓器移植がマスコミを賑わしている。本人ではなく家族の承諾があれば脳死からの臓器移植ができるようになり、子どもも対象となった。
 このニュースを聞くたびに、私は胸が苦しくなる。脳死がヒトの死と承認されたこと自体が私には納得できないのである。
 十七年前、夫が脳死と宣告されたとき、心臓は鼓動していた。手は温かかった。
 臓器移植をして難病の人を救いたいという気持ちはわからないではない。先日テレビを見ていたら、胆道閉鎖症という難病の子どもが肝臓を提供されて手術したというドキュメントが放映されていた。かなり回復しているという。この病気は娘の佐保と同じである。手術をしたが肝硬変がすすみ、助からなかった佐保も、今であるなら臓器移植によって助かったかもしれない。しかし、提供者の遺族の悲しみを想うと、我が子だけが助かってよいものかと、やはりしなかったのではないかと思う。
 臓器を提供する家族の苦しみと悲しみはいかばかりだろう。ましてや子どもの脳死からの臓器移植などはなおさらだろう。もう治らないとわかっていても、体の温かい我が子をいつまでも傍においておきたいのが親心なのではないだろうか。温かい手を握りしめた後、手術室の扉の前で離したのであろう。
 脳死はヒトの死というが、命はここで終わったのだろうか。命が終われば体は冷たくなる。しかし脳死では体は温かいのだ。心臓の動いている、まだ体の温かい命は手術室の中で麻酔を打たれて、絶たれたのである。
 医学の進歩で難病の人を救う研究がどんどん進められている。喜ばしいことである。
 が、人間の大切な命を人間の手で終わらせる研究はしてもらいたくない。どんな命でもかけがえのないものなのである。人が踏み込めない領域があるのではないだろうか。