犬離れ
          石川のり子


 トイプードルのモモとの暮らしも一年半が過ぎた。我が家に来たころは、まだ生後二か月半で、縫いぐるみのようでやわらかい感触だったのに、骨も筋肉もそれなりにしっかりしてきた。外見は真っ黒の縮れ毛で、体重も3.3キロと小型だが、人間の年齢にすれば二十代、避妊の手術も受けさせた。
 獣医師には「痩せすぎですね」と言われたが、無理やり食べさせたりはできないし、いっしょに生まれた四匹の中の一匹のメスもスリムだと聞いて、先生には「体質のようです」と、返答した。
 犬種にもよるのだろうが、モモは人なつっこくておとなしい。ご近所の奥様に「鳴き声がしないので、黒い猫を飼っているのかと思いましたわ」と、言われた。散歩からもどって来て、玄関前の立ち話である。遠目には、猫に首輪をつけて散歩させているように見えたらしい。気ままな猫が、犬のように首輪をして散歩するなど想像できなかったが、そんなふうにして飼っている家もあるらしい。
「猫のような犬でモモといいます。よろしく」
 ここで一声「ワン」と吠えてくれれば面目がたつのだが、私の傍らで愛想よく尻尾を振っている。
 奥様は私の顔をじっと見て、
「そのお年でよく決心されたわね。私も犬好きで飼いたいと思うけど、いつまでいっしょに暮らせるかわからないし、そんなことを考えるとねぇー」
 と、思案顔で言われた。
「深く考えないで飼いましたけど、せいぜい長生きしませんとね」
 モモは隣人の奥様の心も掴んだようで頭を撫ぜてもらって別れた。
 一人暮らしの私には番犬になってほしいのだが、モモは玄関のチャイムが鳴っても知らんぷり。いちばん好きなヤクルト配達のお姉さんには、バイクの音を聞いただけで落ち着かなくなる。玄関ドアを開けると同時に飛び出して、前足をお姉さんの腕に掛けて後ろ足で立っている。彼女は一オクターブも高い声で、「モモちゃん!」と呼んで、抱っこする。犬は好きな人を直ちに察知する能力を備えているようだ。
 犬らしくない犬だが、私の心を癒す存在にはなっている。ソファに座るとすぐ膝に乗り、猫のように膝の上で丸くなる。ブラシで毛をすいてやると、気持ち良さそうに目を閉じている。
 私がモモの主人で、モモは忠実な犬なのだが、キッチンで料理をしているときも、洗濯をしているときも、気づけばいつも私を監視している。姿が見えないと、たとえお風呂に入っていようがトイレに入っていようが、ドア前のマットに座って待っている。
 外出のときは、「すぐ帰って来るからね」と、おやつを与える。留守中は何をしているかわからないが、いたずらもしないで、おとなしく待っていてくれる。そのかわり帰宅したときは、狂ったようにキャンキャン鳴いて喜ぶ。埋め合わせのつもりで、しばらくおもちゃで遊んでやる。
 こんな状態だから、せっかく自由な身分になったのに、娘宅への外泊も旅行もできない。
 
 十一月半ば、毎年恒例の高校時代の友人六人との一泊旅行の案内がきた。草津温泉につかり、心身ともにリラックスして、一年ぶりの出来事を語り合おうというのである。もちろん、参加することにした。
 モモは犬のホテルに預けた。ここはトイプードルの販売もしているので、ケージに入れられた二、三か月の子犬が、壁面に二十ケースほど並べてある。トリミングもシャンプーもするので、若い女性スタッフが数人働いていた。
 人見知りはしないのに、モモは今まで味わったことのない雰囲気に、すっかり怯えていた。甥の自宅で産まれ、親兄弟以外の犬に接したことがなかったのだ。震えているモモを、「こわがらずに、だいじょうぶよ」と手を差し伸べてくれた笑顔のスタッフに預けて、逃げるように帰宅した。専門家だからうまくやってくれるだろうと、モモが喉の奥から悲しそうな声を出していたのに、私はやさしい声をかけなかった。
 翌朝、六時に家を出た。東京駅で会った友人にモモのことを話すと、長年犬を飼っていた彼女は、「ストレスで食欲のなくなる犬もいるそうよ」と、私の心配を煽るように言う。スタッフを困らせているかもしれないと思ったが、いろんなおしゃべりをしている間に忘れた。
 二十年も続いている旅行は、元気な顔を見せることが目的でも、会ったこともない娘さんの再婚やお孫さんの高校入学などで盛り上がった。
 二日目は夜十時ごろ帰ったので、モモは迎えに行かれなかった。翌日夕方まで預かってもらえたのに、心配で朝九時半に車を走らせた。食欲がなくやせ細っているモモを想像し、早く会いたかった。
 平屋建ての犬のいる玄関のドアを開けて、「お世話になりました」と声をかけた。私の声を聞きつけて、モモが飛び出してくると期待したが、予想に反して、なかなか現れない。中をのぞくと、奥の部屋で女性スタッフの後ろから歩いている。モモはすっかりホテルが気に入ったようだ。頼んでおいたカットが済んだばかりで、見違えるほどきれいになっていた。
「おりこうでしたよ」
 スタッフに言われ、この三日間で、モモが急に成長したように思えた。
 どうやら、私は犬離れしていなかったようだ。これからは、もっと気軽にホテルを利用して、自由に旅を楽しんでもいいのだ。気づくと急に心が軽くなった。