石川啄木  羽田竹美

 最近友達になったYさんが突然、
「あなた、石川啄木って好き?」
 と聞いてきた。
「大好きよ。学生のころ啄木の生家のある渋民や歌碑がある北海道のいろいろなところを歩いたわ。立待岬にも行ったのよ」
 啄木の話ができるかと私の目が輝いた。ところが、
「啄木はね、次々と借金をしてそれを踏み倒したりしてどうしょうもない人だったのよ。実は私の祖父が啄木の親友で大分被害にあったらしいの」
「えー?」
 啄木の歌しか知らなかった私はマイナス面をつきつけられて絶句した。
「祖母が啄木の奥さんの妹なの。祖父は啄木の妹の方が好きだったらしいけど、他の人に嫁いでしまったので奥さんの妹をもらったという話よ」
 なんだか私の啄木のイメージが歌の世界から俗世に降りてきてどろどろの中を進んでいくようだった。そういえば、啄木はかなりの遊びやだったと、大学の教授が講義のとき話していたのを思い出した。
 人間啄木に興味がわいてきて、少し調べてみようと図書館に向かった。
 啄木は岩手県渋民村の宝徳寺の長男に生まれた。宝徳寺はかなり財のある寺だったのに啄木は寺を継がず文学の道に入り、友人知己に手当たり次第借金し、寺の財にも手をつけて、とうとう親子で追い出されたという。
 何故寺を継がなかったのだろうか? それは幼いころから神童と持てはやされ、かなりの自信家に作り上げられてしまったようだ。
     そのかみの神童の名のかなしさよ
        ふるさとに来て泣くはそのこと
 貧乏生活と病気に苦しめられたときに詠んでいる。
 啄木は函館でYさんのお爺様の味噌醤油製造業を営み、歌人でもある宮崎郁雨と親友になった。もう一人の親友、金田一京助の二人に多大な金銭的援助を受けている。
 北海道で小学校の代用教員や新聞社などの仕事をしたが、どれも長続きしていない。そのころ北の果てと言われた釧路まで転々として、かなり女遊びにお金を注ぎ込んでいる。それもたくさんの人から借金して踏み倒している。
 私は大学のとき、北海道に行き数多くの啄木の歌碑を見た。大森海岸の啄木記念公園に立つ銅像の台石に刻まれた、
    潮かをる北の浜辺の砂山の
       かの浜薔薇(はまなす)よ今年も咲けるや
 という歌が好きだ。北の浜辺に咲く浜薔薇の美しさに魅せられた。網走の原生花園にも尾岱沼(おだいとう)にもバラ色のこの花があちこちに咲いていた。
 薄紫の馬鈴薯の花にも興をそそられた。
    馬鈴薯の薄紫の花に降る
       雨を思へり都の雨に
 この歌は夫が好きだった歌だが、薄紫の花は北海道にしかないと思っていた。当然この歌は北海道の馬鈴薯を詠んだのだと理解していた。ところが、今回調べた本には、これは故郷の渋民村の回想だとあった。もう一つ馬鈴薯の花を詠んだ歌に、
    馬鈴薯の花さく頃となれりけり
       君もこの花を好きたまふらむ
 奥さんや子どもたちを残して北海道に渡り代用教員をしていたときに好きな女性ができ、その女性を詠んだのだとあった。北海道の回想の歌だという。貧しさで子どもが次々と亡くなったり、奥さんが苦労しているときにである。
    働けど働けど我暮らし
       楽にならずじっと手を見る
 Yさんは、
「あんなのうそよ。啄木は借金ばかりして働かなかったのですもの。だから親戚では鼻つまみなの。誰もよく言わなかったのよ」
 と、手厳しい。
 文学者というものは凡人ではない。啄木が凡人で真面目に教員や新聞社勤めをしていたら『一握の砂』や『悲しき玩具』にある秀逸な歌は生まれなかったかもしれない。人間社会の常識に捉われず感性を深く掘り下げて短歌や詩に表現していく啄木の生き方は、人々に理解されないのは仕方ないことだったのだろう。ましてや、嘘にも頭が回る性格となると、嫌われても仕方ないのだろう。
 嘘に嘘を積み重ねて自己宣伝をしながら方々に借金をしてすべて踏み倒した。名声が欲しくて東京まで出て行き、貧乏生活のどん底の中で、家族みんなが結核を患ってしまう。どうしょうもない悲惨のうちに啄木は明治四十五年二十七歳でこの世を去る。
    今も猶やまひ癒えずと告げてやる
       文さへ書かず深き悲しみに
 これが最後の歌となった。
 啄木からどんなにお金を無心されようとも郁雨は最後まで啄木の世話をし続けた。啄木が郁雨に宛てた手紙の中に、自分が死んだら函館に永久に眠りたいと書いていた。それで、死後、立待岬の墓地は郁雨の墓地のとなりに寄り添うように建てられている。
    東海の小島の磯の白砂に
       われ泣きぬれて蟹とたわむる
 お墓の表面には、ペン書きの筆跡を拡大してこの歌が刻まれている。
 Yさんはご親戚なので啄木の裏話を聞いているからよく言わないのはもっともだと思う。しかし、学生時代啄木に陶酔して渋民村や小樽、釧路まで歌碑を訪ね歩いた私の、啄木の歌への憧憬は今も変わらない。