韓国からの宣教     
            福谷美那子


 高齢になられた土田神父が気がかりになり、お見舞いにいった。
 九十歳過ぎても教会と幼稚園の園長として活躍されていたのだが、九十五歳になられて、ついにベッドの上の人になってしまわれた。   
 昔は元気印のよく肥った神父も、高齢になられ、すっかり細くなられた。
 外出されないので、肌が化石のように白く、頬骨が張って、奥のほうに引っ込んだ小さな目が、優しく笑う。
 忍び足でお部屋に入っていくと、ふっと目を覚まされて不思議そうにこちらを向かれた。
「神父様! お元気?」
 お顔を覗くと、やっと分かってくださった。
「神父様、お寂しくないですか?」
 いつも、この質問が最初に出てしまう。
「寂しくないよ、神様がついていらっしゃるから」
「毎日なにを召し上がっているのですか?」
「鯵の干物……。小学生だったのに、美那子さん大きくなったね」
 私をじっと見つめられると、必ず、こうおっしゃって、にっとお笑いになるのだ。
 昔のことは鮮明に浮かんでくるらしい。

 土田神父は神学校を卒業され、しばらく吉田茂氏の奥様と東京で慈善事業をなさっていた。 
 その後、藤沢市片瀬にある片瀬教会と、S女学園の司祭になられた。当時三十歳の若さだった。
 終戦後間もなく、日本人は異常に痩せていたが、土田神父も祭服の中で細い体が揺れているように見えた。
 頭髪は三分刈り、つるつるした顔にすべり落ちそうに黒ぶちの眼鏡をかけておられた。 
  昭和二十年、私が小学校三年生のときのこと。毎朝、ランドセルを背負った生徒たちが山本橋を渡ると、神父が修道院のミサをすませて帰ってこられる。
「ごきげんよう!」
 生徒の威勢のよい挨拶に、笑いながら高々と手をあげられた。
 磯の匂いのする片瀬川に、爽やかな風が通り過ぎる朝の光景は忘れられない。
 土田神父は、月に一度小学生にイエスさまのお話をしてくださった。湖畔の草原の夕暮れ、イエスが五つのパンと五匹の魚を増やして、五千人の人の空腹を満たされたお話である。
 その熱っぽい口調に、みなぎっているものがあった。
 戦後の食糧不足でいつも空腹であった私は、自分の二つの目が、神父にぐんぐん吸い込まれていくような気がした。
 土田神父は四十九歳のとき、片瀬教会から私が所属していた横浜市金沢文庫教会の主任司祭として着任された。私は期せずして青春時代に土田神父のご指導を仰ぐことになった。そして、神父が韓国人であることも知った。
 ぽつりぽつりと、日本での日々を話しだされたとき、韓国人であるために、どれほどの差別をされてきたか、その口調には激しい怒りが込められていることに気づいた。
「どことなく、僕に冷たかったシスターたちも買い出しにいってね、ジャガイモをたくさんかついでくると、やさしくなるんだよ」
 韓国人特有の濁音の言えない語り口には、どことなくさびしさが漂い、胸が痛んだ。
 教会でも、ときに意地を張って自己主張をされ、会員の誤解を生んだこともあった。しかし、考えてみると神父の自己防衛であったのかもしれない。
 かえりみると、確かに私たち日本人は、韓国人を「朝鮮人」と見下していた時期があったのだから。
 土田神父はその日本に宣教のために、潔く渡って来られたのだ。
 質素な生活をしながら、神の愛を説き、韓国人特有の経営の手腕で、敗戦国日本に教会を建て替えマリア様への信仰を深めていかれた。
 そういえば、忘れられないことがある。
 私が高校生のときであった。
 日雇労務者風に見える男性が神父のところへ無心に来たことがあった。
「ここは信仰を学ぶところで、お金をあげるところではないですよ」
 そう、言い聞かせて帰ってもらったのだが、土田神父は、急いで後を追い、聞いておいた住所の郵便受けにいくばくかのお金を入れて来られた。
 また、つれづれに、
「僕も恋人がいたんだよ」
 と、言われたことがあった。
「どんな女性ですか?」
 興味津津の私たちにこんな話をされた。
「あるときね、橋の向こうから歩いてきた白い髭を生やした老人が、わたしの前でピタリと立ち止まってね、『君は神父になる』と、一言、言って遠ざかっていったのさ」
 聞いている人が静まりかえった。
「そしたら、突然、司教さまからお呼びがあり、ぜひ、神父になるように勧められたってわけ」
 そう言われた瞬間、意を決したような厳しい表情をされた。
「恋人の最後の手紙は封を切らずに司教さまに渡して読んでもらった」
 その告白は得体の知れないものを私に感じさせた。さて、土田神父は神の使者なのであろうか? そんな思いが湧きおこってくる。