体ひとつで 
               柏木 亜希

 道路ぎわの黒土の部分から、炎を淡くゆらめかすろうそくが何本も立っていた。風が吹くと、風とともに虹色に光るろうそくの炎は水煙に似ている。土の上で、その炎がたくさん咲いていた。目をこらすと、炎はしだいにナデシコのピンクや赤、白の花弁へと形をととのえていった。
 それらの光が花なのだと分かった後も、ナデシコの花のあたりで炎がまだ宿っている。花は炎でできているのだと、思った瞬間だった。
 花にとっては花弁も茎も葉も根も、洋服にすぎないのだろう。私たちは、その花の服の部分をいつも愛でているのだ。

 それにしても、あの炎に見えたものの正体は何なのだろう、と推測してみる。花の持つ熱だったのか、花の思い、言いかえれば気配みたいなものなのだろうか。
 自分自身に立ち返ってみると、自信をもって己における本当の自分といえるのは、この「気配」ぐらいしかないような気がしている。
 文章にしても絵にしても、もちろん、音楽や人、部屋、生きものも……すべてのものの気配を読みとり、味わっているのが現実の裏側だとすると、いろいろと合点がいく。
 なぜなら、もし、物質のみに真の価値があるならば、あらゆる芸術は意義も意味もない。絵は、キャンパスに盛られた顔料の重さで価値を競わねばならなくなる。
 人の声にしても、優しいことばを語ってもその響きの中に真の祈りや願いがにじみ出る。音声でさえあればいいのなら、歌もモールス信号で用は足りてしまう。
 人は、極端な話、気配を生み出すために生きているのだ。それも積極的に、である。
 道沿いの花の気配は人の気配に比べると、軽やかで重苦しくなかった。人の場合は、さらに求心力のようなものが強いのだろう。花の気配はあまりにも無防備に自らを称える気配を陽炎にして、燃えていた。この清しさは本当に、人間にはないものである。対して、人の持つ求心力のような磁力は、己を認識する力の反映のように思われる。要するに、人間の場合は、自他を分けて認識する力が強い結果だろう。
 人が神話の時代より、自己への思いに目覚めて以来、人はまた自己という重い檻とのバランス取りに忙しい。
 花が自己の形を花に定めた理由はなぞだ。そして、人がなぜ人の形に姿を定めたのかも、さらになぞだ。
 しかし、私は感じる。私とは心そのものなのだと。自分が身につけている服も、住む家も家具も経歴も、すべてアクセサリーだと思い始めると、心が本当に軽くなる。心だけが私のものになる。
 もし、その心も手離したらどうなるのだろうかと考えてみたくなるが、きっと、人ではない別のものになるのだろう。

 私の新年の抱負をあえて言うならば、「己の心のみを道づれに、身ひとつで軽やかに生きる」と、しておこう。考えすぎることさえ、身の毒である。思考も重りになりそうで、それさえ捨ててしまいたいこのごろだ。

 自由になるとは、己に縛られずにいかに楽しく己と鬼ごっこすることかもしれない。
 つかまえたり、つかまえられてみたり。
 己のバランス取りが上手になったら、世界は居ながらにしてパラダイスだ。
 こんなことを夢想し終えると、どこかの南の島で、現在の人生の夢から目を覚まして、のびをする別の自分の存在を感じた。