記念艦三笠
                 福谷美那子


 横須賀の町を海へ向かってしばらく歩くと記念艦「三笠」の姿が見えてくる。
 「三笠」は大正十五年記念艦に指定されて日本民族の誇りの象徴として、人々から親しまれてきた。
 私は、横須賀市追浜で生まれたので、五歳か六歳のころから、三笠艦のことは知っていた。
 日本に戦勝ムードが漂っていたあるとき、この船が一般公開されることを知って、家族で見物に出かけることになった。
 祖母と母、姉、弟、総勢、幾人だったであろう。
 腰が曲がった祖母がいつもになくシャンシャン歩いたことが妙に印象に残っている。
 家族全員、それぞれ日の丸の旗を持っていた。初めて私は巨大な船の甲板に立って、何気なくうつむくと、足元の板が朱色に滲んでいた。
「お母様、これ、どうしたの?」
 と、その甲板を指しながら問うと、母は口ごもりながら、
「戦争で戦ってくださった兵隊さんの血が、板に染みているのかもしれないわね」
 と、答えた。
 兵隊さんがたくさん並んだ写真や、箱のような船室を母の手をしっかり握って次々と見て歩いた。
 今思うと、そのときの『三笠艦』には、すさまじい戦いが想像されるほど、生々しい切実感があった。
 船室にはハンモックがさがってをり、軍服や軍帽が掛けられ、兵隊さんの汗くさい匂いがした。後日、母の話を聞くと、会議室に掲げられた両陛下のお写真に、私が最敬礼をしたそうだ。なにか身がひきしまる思いがしたのかもしれない。また、記憶をたどっていくと母が、
「この方が東郷元帥よ」
 と、広間に掲げられた写真の中の一つを指した。私は、東郷さんは立派な軍人さんなのだと、じっと見つめたことを覚えている。
 戦艦三笠は明治三十五年にイギリスで造られた。東郷平八郎長官が座乗する連合艦隊の旗艦として戦い、海戦史上例を見ない勝利を遂げた。
 昭和二十年太平洋戦争に敗れて、連合軍司令部の命令により、全てが撤去された。しかし、昭和三十年に至り元に戻そうという声が高まり、昭和三十六年に元の姿に復元された。名称も戦艦から記念艦に改められた。
 ある時、夫を三笠見物に誘った。東京で育った夫には、横須賀で生まれた私のように、三笠に対する特別な思い入れはないのかもしれない。だが快く賛成してくれた。
 その日は、初夏の日が溢れるような晴天の日であった。横須賀港に沿った三笠公園に、東郷元帥の等身大の像が見えてくると、その向うに記念艦は海を背に堂々と巨体を据えていた。遠く寄せては返す静か波の音が聞こえていた。時折の強い日差しに船の全体がいっきに光る。
 私はある感動を覚えながら、元帥の像をしばらく見上げていた。傍らの夫も無言で像を見つめていた。乗船すると、その日、三笠艦はいつもより閑散としていた。
 甲板にむきだしに小胞射手を防ぐ鉄板の囲いがあった。「時鐘」を撞くと、きびしい音が、腹の底まで染み入るような気がした。東郷司令長官が、立たれたであろう艦橋に立って、私は実体のない真昼の海の広がりに身をゆだねた。海面がすけて見える梯子を下りていくと、昔のままの船室があった。そこには非常の時の縄がかけられ、敵発見の通信機と薬瓶がおかれてあった。そこを通り抜けると、昔見たままの四季折々の軍服、軍帽が展示されてある。
 最初のホールには、日本海海戦の絵や、東郷元帥の書、広瀬中佐の遺影が飾られてある。
 数々の戦争にまつわる写真を眺めてしばらく時が過ぎると、いつ知らず子どものころ、口ずさんだ、「杉野はいずこ、杉野はいずや」、の歌が口をついて出た。
 向かいの壁に東郷長官が、「三笠」艦橋でバルチック艦隊を双眼鏡で睨んでいる写真があった。いつ来ても東郷元帥の遺影の前で私はしばらく佇む。これほど優しい眼差しをもった人を他に知らない。
「天は必ず正義にくみし、神は必ず至誠に感ず」
 この信念は元帥のゆるぎない信仰となって輝き、戦役中に連合艦隊将士の精神力の基調となったそうだ。
 なんと言っても圧巻の写真は、東郷元帥が敵方のロジェストウエンスキー中将を病院へ見舞っている写真である。 
 ウエンスキー中将の温顔が印象的だ。彼は元帥にむかって、
「あなたのような提督と戦って敗れたことを私は恥とはしません」
 と、言われ二人の提督は固く手を握りあっている。
 あるとき、若い海軍士官が東郷元帥に海軍士官としての心構えは如何にあるべきかを尋ねたところ、東郷元帥は、「ただ、黙って軍艦旗を見つめておればよい」と答えたそうだ。元帥は自国の旗を堂々と掲げられる有難さと、その自国を護る重大な責務とを教えたかったのであろう。おおよそ二時間、記念艦「三笠」を見物し、満ち足りた心地で下船した。海鳥がいっせいに沖に飛んでいった。五年ほど前だったか、短歌の歌友N氏を三笠艦に案内したことを思い出した。
 後日、N氏から次のようなお手紙とお歌が届いた。

 ひるがへる戦艦三笠の海軍旗われに軍国少年の日ありき
 生死わけし海戦思ふ鉄灼くるまで弾撃ちし主砲の下に
 東郷が負傷のロシア提督を見舞へる写真がキャビンにありき
 その節はたいへんお世話になりました。なぜ三笠を見学したかったか、おはなしいたします。
 日本海海戦と東郷平八郎の生き方は、少年時代から私の心の一角を占めていて、現在に至っています。父は大島商船卒業後、一生(戦犯のころを除いて)海上生活でした。
 私の出身地福岡県には宗像大社があり、辺津宮、中津宮、沖津宮からなっています。
 神官佐藤市五郎氏(当時十八歳)は、この絶海の孤島、沖津宮で日本海海戦を一日観戦し、その観戦記録を残しておられます。
 今年五月、私はこの神宝館を訪れ、観戦記録を筆写しました。知人(三笠保存会)に見せましたところたいへん喜ばれて、本年十一月、東郷会の機関誌に写真とともに載せていただくことになりました。

 甲板から細い体を乗り出すように横須賀の海をみつめておられた後姿をあらためて思い出しながら、私は氏の歌を何度も口ずさんだ。