心に住みし人
                  黒瀬長生


 年末も押し詰まった十二月三十日、電話が鳴った。電話の相手は中学時代の同級生であった。彼とは五十年振りなので喫茶店で会うことにした。
 彼は、田舎では珍しく慶応大学に進学し、卒業後は大手生命保険会社に就職したことは人伝(ひとづて)に知っていた。
 彼は約束の時間に喫茶店に現れた。子供のころの面影があり、懐かしさのあまり二人で固い握手をした。
 彼は、「今は東京で生活しているが、この歳になると郷里が懐かしくなり、正月なので帰って来た。急にあんたに会いたくなって……」と言う。
 二時間ほどお互いの近況や学生時代の思い出を語り合った。そして、土産に小さな菓子箱をもらった。
 菓子箱の中身は『最中(もなか)』だった。『最中』は、上品な風味豊かな味であったが、それ以上に驚かされたのは、菓子箱の包装紙に印刷された仮名文字の和歌である。 
「ふと思うれば 心に住みし人あり訪れる ほほ笑みに巡り逢えし 我は幸せ人かな」
 私は彼にとって、『心に住みし人』であったのだろうか……。いや『ほほ笑み』を持って対応ができたであろうかと反省させられたのである。
 そういう私も、『心に住みし人』がいる。その一人は、東京で同じ下宿であった法政大学文学部に在籍していたA君である。
 A君は、三年生になったとき家庭の事情で休学することになり郷里の長崎に帰った。その一年後、復学して私の下宿に転がり込んできた。A君は今までと違って夜は新宿の酒場で働きながら学業を続けた。そのうち新大久保駅近くのアパートに移ったが、田舎との連絡場所は私の下宿にしておいてくれとのことであった。
 それから数か月がたった。背広に身を包んだ紳士が私の下宿を訪ねて来た。
 紳士は、「A君の伯父で、長崎の親元に連絡すると、ここにお世話になっているようなので寄せてもらった」と言う。
 私は、A君はここには居ない旨を伝え、新大久保のアパートを教えた。
 その数日後、A君が、酒場でお客のトラブルにまきこまれた傷害容疑で新宿警察署に拘置されていることを知った。私はその足で警察署に出向いたがA君に面談をすることはできなかった。
 おそらく背広の男は刑事であったのであろう。私がアパートを教えたためだ、と後悔したが後の祭りであった。私も当時は、まだ若く、世間ずれもしていなかった。A君の伯父だと言われれば素直に信じてしまったのである。
 その一件があってA君との音信は途絶えてしまった。いまA君はどんな生活をしているのであろうか。
 是非一度会いたい。そして、アパートを教えたことを土下座して謝りたい。また背広の男は本当に伯父であったのか聞きたいのである。
 もう一人『心に住みし人』がいる。Bさんである。青森県出身で、私より二歳年上の、ぽっちゃりした顔立ちの物静かな女性である。
 Bさんは、私が東京の職場に勤務していたときに知り合った。喫茶店で語り、公園も散歩し、映画にも行った。私のアパートに数度押しかけてきたこともあった。
 私は、Bさんと結婚するのではないか、と心を動かしたが、どうしても一歩踏み込んだ決断ができなかった。それは、私が、まもなく四国に転勤となり、そこで生涯を送るであろうことが予測できたからである。そのまま東京で生活するのであれば躊躇(ちゅうちょ)はなかったはずである。
 男として情けない限りだが、青森と愛媛ではあまりにも離れすぎている。惚(ほ)れた腫(は)れたでは解決できない問題が後々でてきそうな気がして思い悩んだ。
 Bさんはそんな私を見捨てたのであろう。青森の方とお見合いをして結婚することになった。私はBさんを上野駅で見送った。駅のホームに一人残されると無性に淋しくなって涙がとどめなく流れた。せめてBさんが四国か関西の出身であってほしかった。
 それ以来Bさんとは会っていない。四十年前のことである。幸せに生活しているのであろうか。今年の雪はどうであろうか……。

 A君Bさん、私の『心に住みし人』である。もし二人に会うことができれば、『我は幸せ人かな』の心境になるであろうに……。
 後日、この和歌の作者は誰か、と『最中』の販売元に電話を入れてみたが、詠人(よみびと)知らずとのことであった。
 対応された女性は、あわせて「お客様から同じようなご照会をたくさんいただいていますが……」と、笑いながら答えた。
 なるほど、誰しも『心に住みし人』がいるのであろう。