「心の旅路」
                   室崎陽子


 昔の映画だ。しかし何回もテレビで上映されている。この映画を涙なしに観れなかった人も多かったのではないかしらん。それだけでなくこの本の訳者も五回観に行ったと書いているが、二、三回観に行ったという人もざらにいるのではないかと思う。原作は「ランダム・ハーベスト」(原題は「あてどなき収穫」という)――戦争で記憶喪失となった青年が自分の失った記憶の中の女性を求めてあてどなき精神の放浪をつづける。そして現在自分の妻であり、かつての自分の秘書であった女性が自分が記憶を喪失した時出会って結婚した美しい女優ポーラだということに気がつかない。ポーラのあてどなき努力、これが実に涙ぐましい。
 それはポーラが、第一次大戦が終わってわきたっている酒場にいた主人公と出会って深い霧にまぎれて二人でさまよう所から始まる。そして第二次大戦のはじまる日、主人公が記憶喪失からさめて自分の妻がポーラだったことに気づくところで終わる。長い長い努力の月日だ。このポーラという女性の愛情が観る者にはたまらないのだ。心が深いというのか魅力のある女性なのだ。女優グリア・ガースンの演技がよかった。豆スープの霧の中の演技を、二十数年前の映画のシーンを今もってわたしは覚えている。あれは女の〈優しさ〉なのだ、と。
 だがこの原作にもう一人の女性が出てくることでポーラの深みのあるつつましさが一層光るのである。そのもう一人の若い姪にあたる女性も可憐で賢い。こういう別れの手紙を書く。

「チャールズ、わたしはあなたに仕合わせになっていただきたいの。楽しんでいただきたいの。他人から促されたり、誘われたりするからではなく、ご自分がそうしたいからということで、ふたりでできたらどんなによかっただろうに、と思います。
 でも事実は、わたしはあなたのひとではない、ということです。といってその間違いはわたしたちに無理もなかったのです。なぜって、わたしはほとんどそのひとだからです。わたしとしてもそれだけは主張できますし、それはまたわたしが誇りに思いつづけていいなにかだと思います。でも《ほとんど》では生涯にとってじゅうぶんではありません。……まったくばかげたことだとお思いになるかもしれませんが、いわせてくださいーーわたしはときおり、しかもとくにわたしたちがいちばん親しかったころ、わたしはあなたにだれかほかのひとをーーあなたがこれまで会ったことがあるかもしれない、あるいは会っていないかもしれないだれかのことを思い出させている、といった奇妙な感じをいだいたことがあります。……でもチャールズ、わたしはほとんどあなたのひとであり、わたしがいつか結婚するだれよりもあなたのことを愛している、ということに免じて、このとっぴな行動とお友だちでありつづけることを許していただけないでしょうか」
 キティが主人公チャールズに婚約解消を申し出た置き手紙である。わたしはあなたの人ではないといって去るキティをわたしは好きだ。ほとんどはあうだろうという人では生涯不充分だとキティはいうのだ。

 愛において、本当に分かる場合とほとんど分かる場合の違いは大きい。友情においてもそうだ。そして神と出会う場合においてもそうだ。わたしはほとんど理解できる程度では満足できなかった。どこかでわたしの心が渇くようであれば生きていられないとわたしは思った。アウグスチヌスの言葉ではないが、「神に会うまではわたしは安らぎを得ることはできません」という所までゆかねばならなかった。
 わたしは小塩力牧師と初対面で話した時、渇きがとまった。わたしはほとんど分かられたのではなく、本当に分かられたと思ったのだ。そう、だれかがうまい表現をした、吸い取り紙に吸われるように、と。そのように自分が理解されることが人生にはやはりあるのだ。そのことが回心に、受洗になったのだ。そしてわたしはその後の人生を、吸い取り紙のように人を理解する人になりたいと思った。
 トゥルニエがいっている。
「たましいの問題は、聴き、理解し、愛し、祈ることだ」と。それですべてだとわたしも思う。人のたましいを解する人になりたいとわたしは思った。
 キティという女性の言葉は重要な言葉だと思う。と共に、夫チャールズが「失われた本当の自分」を見つけるまでかたわらにいて徒労に似た努力をしている「心の旅路」のヒロイン、ポーラにひどく心を打たれるのである。これはわたし達の人生の旅路の姿ではないか、と。本当のものに出会わないで間にあわせで生きることなんて、やっぱりいやなことなのだ、と再三思ってしまうのだ。
   (『雪割草』より)