骨  折
           福谷美那子
 
 平成二十二年十二月一日、午前二時ごろのことであった。我が家の二階の階段から転げ落ちた。後、三段というところだった。
「どさっ」と、いう音に自ら驚いた。
 まことに慎重に降りてきた筈なのに、寝ぼけていないことは確かだとすると、足の感覚が鈍ったのであろう。確実に老いた証拠である。
 居間の扉が私の重みで押し返されたのが幸いして、頭の打ちみは軽くてすんだのだが、右を向いても左を向いても起き上がれなかった。
 私はあらん限りの声をふりしぼって夫を起こした。しかし、叫び声ばかりクルクル回り、夫が起きる気配は毛頭ない。
 かなりヒステリックな声で、
「大変です。大変です。起きてください!」
 と、叫んだとき、ようやく夫が降りてきた。
「動けないの、階段から落ちちゃった」
 夫はやっと目が覚めてわれに返ったようだったが、辛うじて平静を保っていた。
「ともかく部屋に入らなければ」
 彼は、私を引きずって居間まで来た。幸いに痛みはあまりなかった。
 電気を点けると拍子抜けがするほどあたりが明るくなった。
「パパ、救急車呼んで」
 控えめな夫は、
「朝早くからご近所に迷惑がかかっても」
 と、ためらいながら救急センターへ連絡を取った。二人共張り詰めて落ち着かず救急車の到着を待った。
 さすがに連絡から十分、玄関の扉が手荒く開けられ、三人の消防士がドヤドヤと、足早に我が家に入って来た。その中で大柄な五十がらみの男性が、上向きに寝ている私にまたがり、私の目をじっとみつめた。私もその消防士を見つめ返した。
「奥さん、僕が誰だかわかる?」
「消防士さん」
 鸚鵡(おうむ)返しに言った。
「この奥さん、頭は大丈夫。そら、こっちへ」
 他の二人がシーツのような白い布を広げて、掛け声もろとも、私を抱き上げて救急車に乗せた。私の意識は朦朧(もうろう)としていた。救急車の車中、消防士の一人が、手早く血圧を測った。
 明け方の病院は人もまばらである。当直の若い医師が私の枕元に直立不動した。
「右大腿骨骨折です。立派に折れていましたよ。ところで、手術か自然治療かどちらにします?」
 と、聞かれた。看護士が傍らに立っている。
 私はすかさず「手術!」と叫んだ。
 たちまち時が過ぎ、午後一時になると、ストレッチャーが来て、ようやく手術室に運ばれた。
 その部屋は細長く、小さな電気が点滅して、なぜか全体が青色に見えた。部屋の真ん中の手術台に、私はあお向けに寝かされていた。
 ここまでは記憶がはっきりしているのだが…。
 術後、麻酔から覚めると、私は嫌でも障害者になった自分と向き合わねばならなかった。
 夜半の病室では人間の笑い声さえ不気味に聞こえる。しかし、朝になると、食器を洗う音が活き活きと新鮮な響きをもって聞こえてくる。春近い霞も美しい。おおどかに鳶(とび)一羽が飛ぶ空はかぎりなく蒼色に波うっていた。
 運ばれたベッドにつくと何故か、すでに故人になった人ばかり恋しかった。父母、弟、もう、決して会うことができないのに…。
 私は介護一級の証書を手の平に載せて、かすかな感傷に浸った。
 今日からはこの病室から見える遠い空を心の糧として闘病しなければと、殊勝な覚悟に励まされた。
 絶望感に落ち込んでいると、なにゆえか障害のある二人の人に心が及んだ。
 一人は小学校から高校までともに学んだ親友、もう一人は私の父方の従弟の思い出に釘付けになった。
 両者ともに幼児の頃、小児麻痺にかかってしまった。
 従弟の忠(ただし)さんは街医者をしていた私の父の片腕として不自由な体で、我が家の薬局を仕切ってくれた。私の実家の長い廊下で自在に動かない自分の足に躓き、転んでいた姿が今でも彷彿とする。子どもたちの悪戯で廊下に蝋など塗って忠さんを困らせたこともあった。廊下で彼がすべると笑いころげる、子どもとはいえ何とひどいことをしたのであろう。
 もう一人、友人Yさんが思い出される。
 彼女は色白でその端正な顔立ちは聖母マリアを思い起こさせた。何をしても学年トップになる。小学生のころ、私は彼女がスカートを履かず、いつも制服の上に絣のズボンを履いているのが不思議だった。    
 ある時、彼女が言いにくそうに、小児マヒで片足が短いことを打ち明けてくれたとき、私は、胸が絞めつけられるように悲しくなったことを覚えている。ある時の彼女の日記に、
 泳ぎたい、でも諦めなければならない。
 と書かれてあった。これは彼女が見せてくれた、ある日の日記である。
 自分が障害者になって初めて、負い目をもった人がまざまざと思い出される。そして今不自由を耐えて生きている人たちを、いかに他人ごととして眺めていたか、反省の念がしんと胸に響いて、お詫びの気持ちが静かに心の底を流れていく。