〈随想〉
    古典を読む楽しみ
            高橋 勝


 古典は、かつて授業のための教材研究として関わっていたのだが、その後仕事から離れたためしばらく遠ざかっていた。ところがいつだったか先頃、新聞の投書欄に「古典を読む楽しさ」という短文が載っていた。おおよそ次のような内容だった。
 「つい先日、近くのコンビニの脇に古本回収ボックスが取り付けられているのを目にした。差し入れ口から中を覗くと、数々の雑誌や漫画本に混じって箱入りの古典文学作品もあった。まだ充分読めるのに、と惜しんだ。そこで私も学生時代以来絶えて手にしたこともなかった古典を読んでみようと、子供達の残していった高校の教科書を引っ張り出した。難語句や独特の言い回しに悩まされたが、文意はおおよそ理解できることが分かり、辞書を片手になんとか最後まで読み通すと、忘れていた古典を読む楽しさが蘇ってきて、もっと読んでみたくなった。手近なネットで古本を捜すと、驚くほどの安値で売っている。読みやすそうな『徒然草』と『奥の細道』を購入し、それぞれ時間をかけて完読した。難しいけど読み応えがあり、現代文とは異質な深い味わいに出会えたような気がする。次は何を読むか今選択に困っている。」
 これをきっかけに、古典のことが気になってしまった。そう言えば、自分にとって古典との出会いとはどのようなものだったのかと思い出してみる。はるか昔、高校を卒業して無為に過ごしているとき、この三年間学校で学んできたのは一体何だったのだろう、と振り返った。ひたすら強いられる時間に反抗もできず、息苦しく過ごしていたという思いばかりが強烈で、学習面で感動するような体験は何一つとして残っていないことに気づく。だが、ひとつだけだが鮮明に脳裏に浮かんでくるものがある。古典の授業で扱った、『徒然草』に出てくる一節ではなかったかと思う。
 男が鄙びた里に住む女のもとに通う。まだ夜の明けきらないうちに帰宅しようと男は女に別れを告げ、有り明けの浮かぶ月のもと、朝露のかかる萩の花に両脇を包まれた野道をひとり帰っていく。女は、男の姿が見えなくなっても濡れ縁の柱に片手をかけて、ずっと去っていった方角に目をやって見つめている、という情景である。
 たったそれだけなのだが、なぜかその場面に自分が入り込んで、霞に包まれた家の屋根や辺りの庭や種々の草や萩の花の色まで、眼近で微に入り細に入り覗き見しているような不思議な感覚を覚えた。同時に、この女の仕草や遠くに向けている目の表情のなかに、故知れぬどこか遠くに忘れ去った郷愁のようなものを感じ取ってしまった。ああ、古典とはこのような世界なのだなと、言葉では定義できない異様な体験をしたのだった。それが結局、その後の進路を方向づける一因となったのは疑い得ない。
 そこで私も再び古典を読み始めようと教科書を探したが、借りていた教材はすべて職場に返していたことに直ぐ気がついた。そこで神田神保町の本屋まで行って、できるだけ難しそうな高校生の教科書を手にとって選び、真新しい頁を初めから読んでいった。「若紫」(『源氏物語』)、「大晦日は合はぬ算用」(『西鶴諸国ばなし』)、「上にさぶらふ御猫は」(『枕草子』)といった作品の一節ずつ順序よく括っていく。このときの思いを喩えるならば、「あこがれ」(『更級日記』)で念願の『源氏物語』全巻を手に入れ、后の位も何のそのと、夜を昼にして一の巻より読み耽ってしまう著者のようであり、前へ前へとわき起こる興奮も抑えられず読み進めていけるのには自分ながら驚きだった。それとともに、読んでいると、こうした著名な作品はいずれもかつてどこかで読んでいた記憶が無意識の世界から微かに浮かんでくるのに気づく。
 高校や中学の古典の教科書は、現在問題となっている所謂教科書問題とはなりにくい性質を持っている。「日本史」や「公民」のように、時勢によって内容解釈や表現表記の改変が意図的になされといった問題はほとんど見られない。現在の眼差しから恣意的な解釈がなされるならば、やがては弾き出されてしまう宿命にあると言えよう。作品自体の持つ歴史的な重みに耐え得なくなるからである。逆に言えば、それがあるからこそ今日でも「古典」と呼ばれるのである。ただ教科書では、読解するうえで今日的意義を考慮し、また数多の作品から対象とする生徒や学校に応じて難易度に差をつけ、収録作品数や分量などの面でさまざまに編集されることになる。それゆえ、すでに学校を卒業しているなら好みのテキストを選べるという気楽さがある。
 いずれにしても、古典の世界に親しむことはいつでもどこから読んでも新たな楽しみの発見である。しかし現代人にとっては、脚注付きとは言っても、古語で綴られた原文を読み通すのは難しいと言われる。学生の身分から一旦社会に出てしまうと、専門の道に携わるわけだから、他の分野の書を読む機会などごく限られてくる。特に古典や英文など、それまで日常的に触れあってこない言語の場合、先の新聞投稿者のように学生時代の教科書や参考書などから復習し直すなど、忍耐強く努力しなければならない関所が待ち受けているだろう。しかし、本当に自分にとって価値ある書籍や学問であると見なすことができるなら、それに向かって地道に挑戦することだって出来るのではないか。今回の投稿者の方は、時間的な余裕があったのだと考えられる。そう、遅くはないのだ。かつて少しでも読んで面白い経験をしたことがありさえすれば、自分で読もうと思い立ったときからでも充分間に合うに違いない。
 現代人にとって古典の面白さを味わう道を遮っているのが、今日死語と化している昔の言葉を理解する難しさにあるというのは確かである。だが、その難しい古語そのもののなかにこそ、古典の魅力が隠されているというのも事実である。なぜなら、古語に宿る言葉の文(あや)によって、時代に生きた著者とその時代そのものの呼吸と声とが聴く者の心の耳に伝わってくるからだ。
 つまり、この古語で綴られた文体にこそ、現代語訳に変換してしまったのでは失われてしまう古文を味わう醍醐味があるのである。それは、温かな肌のぬくもりの感じられる人間の鼓動であり、息吹であり、響きでもある。時代をはるかに隔てた現代人が言葉の表現を借りて、かつて生きていた同じ日本人を今そこに蘇らせ、命の繋がりを持たせられる。ここに、古典を読む最大の魅力があると思う。同じ国民の精神と感性が自分のなかで生き続けているのを確かめられ、共感できたときの喜びは言葉では言い表せないほどである。こうした問題は、これまですべて誰かが言ってきたことであるが、実際に自分で読んでみて直感したことなので改めて書いてみたまでである。
 話が何か教養主義的な方向に行ってしまったが、考えてみればこうした事柄についてあれこれ思いを巡らせられるのも、現在置かれている状況に依るものであることが分かる。これまでは、あくまで進学するために必要な古典であったのであり、授業をするために避けて通れない教材であったのであり、常に何々のためというなかば生きるための利害関係で取り組んできたのだった。それが今すっかり取り払われ、心の向くままに手にとって読めるという形態に変わった。このことが、逆に古典に純粋に向き合え、じっくり読めるようになったということに繋がっている。いわば私心を清らかに払い去った状態で書籍に向かうということが、古典の持つ本来の味わいをおもむろに見せ始めてくれているのだと思えてならない。
 しかしこうした思いを抱けるのも、決して自分ひとりの力によるものだとは考えられない。これまで生活に必要であったために長く係わってこられた古典であるということは、読解力を含め、その計り知れない恩恵を、今になって、否その当時から陰に陽にひとりの人間として多くの人達から受けとってきたと言うことでもある。自分では意識できないけれど、そうした糧は血となり肉となり、何らかの形で自分のなかに宿っているはずだ。今日、こんなことも分かる歳になったのだなと、改めて感慨に耽らざるを得ない。