〈エッセイ〉
  言葉を取り戻す
                 高橋 勝

 テレビで、街頭インタビューを受ける若者やスタジオの出演者、あるいはフィールドのアスリートなどが、「生きれる」、「見れる」、「食べれる」などの「ら抜き言葉」で何気なく話す場面に出食わすことが多々ある。観ている方には、一瞬、狐につままれたような違和感を覚えずには居られない人も多いのではないか。この現象は一例に過ぎないが、こうした日本語の乱れはさまざまなことを考えさせてしまう格好の素材である。
 現代人は、特に若者を中心に、言葉を人や社会との関わりや、文化や伝統を踏まえて正しく把握したり、使えたりすることができなくなっていると指摘することもできよう。いや、居直ってそんなことをいちいち考える暇などそもそもあり得ないなどと反論の言葉が浴びせられるような気もする。そうであるなら、ここには言葉を特に意識することもなく、自分本位に使える、いわば気楽に消費可能な道具と見なしているような心理状態が存在していると思えてくる。
 さらに敷衍(ふえん)して考えてみると、こうした現象の背景には、今日、携帯電話や情報が溢れているのに、それゆえ私たちは人とつながることが簡単にできるのに、各個人がめいめいに自らの垣根を張り巡らしてしまい、それをいかようにも越えられず、なんとなく孤独感を抱き合いながら、相手方の様子見をして生きている実態が垣間見えてくるのではないか。そもそも人間が孤独であるとは、心に空洞を抱えていることであり、他とのつながりが持てない虚無な状態に置かれていることを意味する。それなら、これを克服し、心情的に安定した自己を取り戻すことはできないのだろうかと考えてみることも意義あることだろう。
 学生の論作文を大量に添削していると、あるひとつの方向に収束していく論調が見られる。課題文で求められている主題について規定の800字近くまでマス目を埋めていくのだが、たいがいは論点を複数提示したり羅列したりしているし、さらにそれぞれを既にインプットしてある多量な知識をその場の型にはまった思考形式にあてはめていくといった書き方をしている。つまり、ある問題に対して必要とされる具体的な取り組み策に持っていくまでは理路整然と提示できているのだが、それを実現する際、新たに遭遇する、いわば2次的な課題や問題点を見出し、いかに克服していくかといった踏み込んだ考察まで展開できている答案は極めて少ないのである。それゆえ、こうした論述の仕方は、大学入試までは合格点の取れるものであっても、実社会への試験に臨むに当たっては、思考力がまともに育っておらず、判断力も軽薄であり、それゆえ表現力も当然個性的なものとは言えない。実社会に普段から目を向け、そこから自分にとっての問題を救い出し、その時代背景や社会状況、あるいは他の自治体の取り組む事例などを踏まえての掘り下げた考察が不足していると言える。
 このことは何を暗示しているのだろうか。社会状況の流れに乗って、あちこちと根無し草みたいに動き回ってきた若者の姿が、文面から滲んでくるような気がする。これを現代の教育制度のせいにしたり、学生特有の気質やそれを取り巻く環境に原因を求めたりできるのだろうか。解答のすでに出ている社会と錯覚してしまえば、自ら考える必要性などどこにもあり得ない。これまでの20数年間、そのようにして育ってきたのかと疑いたくなる。そうであるなら、考えることそのものである言葉に自らがしっかり向き合ってこなかったということだろう。今日のように情報の溢れている時代だからこそ、自らの考えや意見を持つのに必要なことは、若者に限らず、それぞれが意識的に言葉に正面から向き合って、自らの言葉を見出していくよりほかに基本的な方法というものはあり得ないのではないだろうか。 
 かつて、評論家の江藤淳は、その著作『近代以前』によって、自身の生きる時代状況を言葉を取り戻すことによって再認識しようと考えた。
 この書籍によると、著者は若くしてアメリカの大学で教鞭を執っていて、英語に取り囲まれ英語で物事を考えていたという。ところが、あるとき「リチャード・ブラックマーが『沈黙の言語』(The language of silence)と呼ぶところのもの、思考が形をなす前の淵に澱むものは、私の場合あくまで日本語でしかない」ことに気づいたと述べ、「言葉は、いったんこの『沈黙』から切り離されてしまえば、厳密には文学の用をなさない。なぜなら、この『沈黙』とは結局、私がそれを通じて現に共生している死者たちの世界――日本語がつくりあげて来た文化の堆積につながる回路だからである。このような言葉の世界に『近代』と『近代以前』との人為的な仕切りを設けることは不可能である」(同書24頁)と続けている。その上で、昭和20年8月15日の敗戦後の状況が、藤原惺窩(せいか)の生き方を知ることによって、自らの生きる支えとして新たに捉え直せたと述べるのである。
 藤原惺窩とは、『新古今和歌集』の撰者、藤原定家の12代目の孫で、歌学の家柄として知られる冷泉(れいぜい)家の出であった。関ヶ原の戦いの起こる慶長年間に、豊臣秀吉によって冷泉家にとり特に由緒の深い領地を横領されてしまい、長きにわたる伝統の砦を絶たれる事態に遭遇した。惺窩はこれに対し、同じ武力による抵抗をあきらめ、「どうしてこの武家が支配する世の中の現実をそのままに認めないか。認めた上でなおそのなかに公家の本来の理想――すなわち文治の理想を生かそうと努めないか。正統はそのようなかたちでしか生き続けられないではないか」(同書52頁)と考え、それまで禅僧でもあった自分の身を捨て、家康に近づき徳川政権公認の朱子学に転向する。公家本来の伝統を存続させるためには、その際の違和感を言葉に綴っていくよりほかに自身に取り得る道はあり得ないと考えたのである。
 これに対して、戦後、生家を跡形もなく失ってしまった江藤にとっても、この時代はまさに「喪失の時代」としか思えなかった。だから、昭和40年、敗戦から20年経過したにもかかわらず、江藤は自らの家の痕跡を探そうとし、この文(『近代以前』)を書くしかなかった。敗戦後、アメリカ文明の日本進出を受け入れた日本の状況を、江戸時代当初、アジア地域に広く行き渡っていた朱子学を惺窩が受け入れたのと同様に、アメリカ文明を世界の普遍性と捉えれば、それを受け入れた上でその影を見定め、日本人としての違和感を問い続けていくことで日本伝統の文化を維持発展できると考えたのである。
 すべてを喪失して虚無に陥り、寄る辺なき生き方を余儀なくされてしまったとき、江藤のように、人は、自分を超えた連続体として存在する日本語という言葉に自分との分かちがたい結びつきがあることを感じ取って過去の人物に目を向け、そこに自身に波長のピタリと合った生きざまを見出す機会が持てさえすれば、何等かの形で今の自分の生き方の指針にできるのではないか。こうしたあり方は、いわばそうすることで、孤独な自分が今ここに居ることの根源を、その支えを得ることができると言うことであり、それによって自分のあり方を方向づけ、じょじょに安定した自己を取り戻せることを意味すると言えるのではないだろうか。
 ところで、自分のことを振り返ってみると、先頃『紫式部日記(付紫式部集)』を読んだことが昨日のように思い出される。学生の時分、専攻していた関係で部分的にこの日記を読んだことは覚えている。しかし、今回は比較的時間を持てあぐんでいるせいか、少しずつではあるが朝早めに起きる習慣も手伝って、まだ薄暗い時刻に日ごとに一頁、一頁と脚注を参照しながら読み進めていった。この度手にしたのは岩波書店の『新日本古典文学大系』のなかの1冊である。まず、同じくこの巻に収められている『土佐日記』、『更級日記』と読み進み、最後にこの日記に取りかかった。
 前の2作も面白い読み物であるが、こちらは、その書き方が全然違う。さまざまな特徴が指摘できるだろうが、特にその緻密な描写には驚かされる。道長の邸や宮廷で催される行事の様子、池に泳ぐ水鳥や魚や木々の風へのそよぎといった風景描写、あるいは同僚の女房達への忌憚のない人物観察や批評などが展開されている。そうした世界に引き込まれてしまう楽しさもあるが、なんといっても痛く感動させられてしまうのは、式部自身の飾らない心情が描かれているところである。
 例えば、式部の夫宣孝(のぶたか)の死後、宮仕えの合間に里下りしていると、埃の被った形見の品を所在なさの高じたおり、おぼろげに手を伸ばし、かつて夫のことを思い出すことも加わり、やるせない自分の宿命をいかんともし難く、法華経の念仏を一人部屋にこもって唱導しようと思うこともあるのだが、家には女房が何人かいるので、密かに聞かれることを思うとそれもできないと歎いている場面がある。次の場面は、そのうち前半に当たるので引用してみたい。

 ―― 風のすゞしき夕ぐれ、聞きよからぬひとり琴をかき鳴らしては、なげきくはゝると、聞き知る人やあらんと、ゆゝしくなどおぼえ侍こそ、をこにもあはれにも侍けれ。さるは、あやしう黒みすゝけたる曹司(注・里邸の自室)に、箏の琴・和琴、しらべながら、心に入て「雨ふる日、琴柱倒せ」などもいひ侍らぬまゝに、塵つもりて、寄せたてたりし厨子と柱とのはさまに首さし入れつゝ、琵琶も左右に立てて侍り。大木なる厨子一よろひに、ひまもなく積みて侍もの、一つには古歌・物語の、えもいはず虫の巣になりにたる、むつかしくはい散れば、あけて見る人も侍らず。片つかたに書(注・漢籍類)ども、わざと置きかさねし人(注・大事に重ねて置いた人。式部の夫宣孝)も侍らずなりにし後、手ふるゝ人もことになし。それらを、つれづれせめてあまりぬるとき、一つ二つひき出でゝ見侍るを、女房あつまりて、「御前はかくおはすれば、御幸はすくなきなり。なでふ女か真名書は読む。むかしは経読むをだに人は制しき」と、しりうごちいふを聞き侍にも、物忌みける人の、行すゑいのち長かめるよしども、見えぬためしなりと、いはまほしく侍れど、思ひぐまなきやうなり、ことはたさもあり。(同書310~311頁)

 こうした式部の筆使いを読んでいると、これがあの『源氏物語』の作者なのかという、それまでのある種の執着していた女性像から完全に引き離され、一人の女性としてそこで息づかいをしている式部自身の感触が伝わってきて、いつしか自分と同じ呼吸をしている自身を見出し、顔の赤くなるほどの体験をしているのであった。
 これは何を意味しているのかと考えてみれば、ことばを通して、紫式部という過去の人物を知ることであり、それはそのままそれを知っている自分を確かめているということである。自分にはこのように感じられたり、思えたりする心情がある人物であったのだと認識を増やしていければ、それを支えに、新たな方向に向かって歩みを始めることができるということである。まずは、そのためには言葉を、過去からの母国語である日本語を取り戻すことがとても大事であることに気づくのである。