今年の雪は……       

                  石川のり子

 朝六時、モモ(犬)を散歩に連れ出そうと玄関のドアを押した。いつになく重いドアを無理やり押しやると、降った雪が邪魔をしていた。外は30センチほども積もっているだろうか。小型犬のモモは飛び出すこともできず、雪に鼻を近づけて匂いを嗅いでいる。
 小降りとはいえ、粉雪が真っ黒な毛を斑にしている。雪を払って、赤い洋服をきせてやる。モモはぶるぶるっと身震いしてから、雪の少ない軒下を駆けて、裏庭に向かった。
 私はサンダルを長靴に履きかえ、ジャンパーのフードをかぶり、玄関のドアを閉めた。雪国生まれの雪国育ちの私でさえ、あまりの寒さに、自然に背が丸くなる。両手をポケットに突っ込み、上目づかいで周囲を見回すと、綿帽子を被った大小の木々、雪に覆われた屋根。見渡すかぎりの銀世界に、眠気がとび、身も心も清められる心地がした。背筋を伸ばし、童心にかえり、雪の中を歩き回りたい気持ちになった。
 庭の中央の狭い花壇は、ふわふわのベッドのようで、こんな柔らかな雪の上に、仰向けに寝て、空と向き合っていたい。学校帰りに友だちと競って倒れ込み、大の字になって空と向き合った思い出がある。すぐに背中が冷たくなってくるので、ほんの一、二分だが、気持ちが良かった。雪が降っているときは、わざと大声で話をして、口に入ってくる雪を飲み込んだ。

 雪の中に立っていると、雪国で暮らした思い出が次から次へと浮かんでくる。
 モモは物置小屋の南角の定場所で用を済ませ足もとに寄ってきた。童謡では、”犬は喜び庭駆けまわる”と歌うが、我が家の犬は寒がり屋で、急いで玄関にもどり、ドアに前足を掛けて開けてくれと催促している。
「ちょっと待ってね」
 郵便受けの雪を払って、中をのぞく。空っぽだ。塀越しに道路を見やると、人っ子一人通った形跡がない。新聞の配達は無理だろう。道路に向かい合って並んでいる家々は、日曜日のせいもあって、雨戸を閉ざしたまま静まり返っている。
 私は音をたてないようにモモと家に入った。
 
 テレビをつけると、今日は東京都知事の投票日である。この雪では投票に行くのが困難な人もいるだろう。テレビは雪道の歩き方まで教えていた。昨日から降り始めた雪で、滑って転んだり、除雪での事故などで、病院に大勢の人が運ばれたようだ。
 東京の雪は四十五年ぶりの大雪とのことだ。四十五年前と言えば、長女の生まれた年である。三月十日が出産予定日だったが、テレビで予報官がしきりに大雪を告げていたので、いつ生まれてもおかしくない状態だった私は、夫に付き添ってもらって、前夜に関東中央病院に入院した。そして未明に陣痛がきて、早朝に長女を出産した。
 看護師さんは娘を抱いて、「外は雪で真っ白ですから、雪子ちゃんですね」と、対面させてくれた。幸せな気分だった。
 窓外の雪景色は、室内にいる私にとって最高のプレゼントに思えたが、夫はたいへんだったようだ。玄関のガレージが開かず、雪掻きをしたことや、電車が遅れたこと、滑って歩けなかったことなど、東京にしては珍しく30センチほども積もった雪が、いかにたいへんだったかを、繰り返し語った。
 当時は、交通の麻痺や怪我などもあったのだろうが、ほとんど記憶にない。
 
 朝食を済ませ、私はのんびりコタツに入って、昨日始まったソチでの冬季オリンピックの開会式を見ていた。時間を忘れて見入っていると、めったに鳴いたことのないモモが、コタツから跳び出て、玄関に向かって吠えはじめた。
「どうしたの?」
 ドアホンのモニターで外を見ると、雪は止んで、向かいのご主人がスコップで雪掻きをしておられる。私も「こうしてはいられない」と、ジャンパーに帽子、マスクをして、長靴を履いて、参加した。ドアホンには一人しか写っていなかったのに、道路に面した家々の、ほぼ全員14、5人が働いていた。朝方には足跡のついていなかった道は、すでに部分的にアスファルトが現れている。車の利用が第一なので、ガレージ前から10メートルくらいの除雪を始める。
 雪置場は、車の出し入れに差し障りがないように、塀側に積み上げる。昨年買ったばかりのプラスチックのスコップは軽くて、まだ凍っていない雪を比較的簡単に移動できる。とはいっても、五回運んでは一回手を止める。ご近所に多少は手伝ってもらっても、我が家の分はこなさなくてはいけない。
 小一時間ほどで、腰や腕、肩が痛くなってきた。そして熱い。息切れもしてきた。喉も乾いたので、家に入り、冷たくなったお茶で喉を潤した。

 もうひと頑張りと、外に出ると、太陽が雲間から顔を出したことにもよるが、我が家の前の通りはアスファルトが出ている。一人の力はささやかでも協力し合えば大きな力になることが実感できた。
 裏庭もモモが歩けるように除雪しようと、歩きかけると、突然大きな音がして、屋根の雪が、目の前に落ちた。と同時に、バリバリッと壊れる音がした。びっくりして玄関に引き返したが、下に居なくて良かったと胸を撫で下ろした。昨年、屋根の吹き替えをしてもらったばかりで、滑り止めも付けてもらったのだが、落雪のことなど念頭になかった。
 屋根を見上げると、二階のベランダの屋根が壊れていた。母屋から滑り落ちた雪が、朽ちかけていたベランダの右側の部分を圧し折ったのだ。
 雪の日の大きな置き土産に、思わずため息をついた。