「 窓 」
               中井和子


 その日、私は知人と会う約束をしていた。会う前に済ませたい用事があり、家を早く出たのであったが、時間が空いてしまった。昼の時間でもあり、私はビルの八階のレストランで軽食を取ることにした。
 窓際に席を取り、窓外に目をやると、正面に奥羽山脈の稜線が夏空にくっきりと、それもいやに間近に見える。視線を少し下げると新幹線の列車が高架線を滑るように走り去って行く。時時、車体の色の異なる新幹線が行き来する。あの紫色の列車名はなんだろう? 私がいつも利用する「やまびこ号」の車体は緑色で、「青虫」の愛称もある。眺めているうちに私の旅心がすぐられて、また、どこかへ旅をしたくなった。
 視線を転じると、向かい側のビルの屋上が緑の植物に覆われている。植物が何なのかは遠くてよく見えない。節電のための工夫なのだろうか……。そのビルの敷地内のコンクリート塀の中で、二十五、六歳ぐらいの若い男性が、ボールを塀に当てて独りキャッチボールをしているのが見えた。もちろん、顔がはっきり見えるわけではない。両腕を大きく振りかぶり投げている。ピッチャーの構えだ。なかなか様になっていて、学生時代は野球部のピッチャーでもやっていたのだろうか。そのうち構えが変わった。胸のところでボールをキャッチすると、すばやく投げた。あれはショートの構えだろうか。
 やがて、彼はボールとグローブを丁寧に片付けると上半身裸になり、タオルで体を拭いた。それからシャツを着て社員らしいスタイルになった。時計を見ると一時五分前である。彼はこれから午後の勤務に就くのだろう。
 その男性は、自分の昼休み時間の一部始終をだれかに見られていたなど知るわけもないが、それを知ったらどう思うであろうか。そして、また、そのような私をだれかが観察しているかもしれない。私はうろたえた。そっと辺りを見回したが、客たちはそれぞれに話に夢中になっていて、だれの視線とも合わない。
 ヒッチコックのサスペンス映画『裏窓』が浮かんだ。そして、『壁に耳あり、障子に目あり』のことばが口の中で転がった。急に私の頭の中がブルーグレーの色に翳(かげ)った。
 第二次世界大戦中、私はまだ小学生であったが、おとなたちが『滅多なことは言えない、だれが聞いているか、だれが見ているかわからない。社会体制を批判したり、不平不満を言ったりすると、憲兵隊がやってきて、連れて行かれるから気をつけなければならない』と、ひそひそ話し、怖がっていたことを思い出す。私は子ども心に、腕章の憲兵の文字に怯え、親しい隣人をも疑わなければならないのだろうか、とうら悲しく、恐ろしいのであった。その思いまでもが蘇(よみがえ)ってきた。
 いやな世の中であった。しかし、終戦後は自由を得て、その戦時中の苦い体験は体験として、昭和生まれの私たちはいい人生を送れたと、言えるはずであった。しかし、人生終わるまで何が起こるかわからない。原発事故で目には見えない放射線に怯える事態になってしまった。
 原発の建てやでは東日本大震災前から、あちこち不具合があって、たびたび運転中止のニュースが流れていた。私はそれを見るたびに危惧を抱いた。所詮、人の造った建造物である。年数がたてば脆くもなる。あの大地震、大津波には一溜りもなかったはずだ。
 水素爆発地点から十キロ以内の町に住んでいた友人は、着の身着のままでの避難を余儀なくされた。病身のご子息夫婦と三人で茨城、千葉と転々と車で避難して回り、ようやく、この春から福島市内の借家に落ち着かれた。
 私は彼女から話を聞いて、やり切れない切なさとやり場のない憤りで胸がいっぱいになったのであった。
 私は気分を変えるように窓の真下の道路を見下ろした。暑い日盛りで、人影はまばらであったが、小さなポーチを持ったオフィスレディスたち三人がランチを済ませてきたのだろうか、談笑しながら、足早に近くのオフィスビルに向かっている。若さが眩しい。その後方から品のいい、素敵な老夫妻が暑さの中にも凛とした姿で歩いている。
 窓から少し離れると、ガラスに自分の姿が映った。私もあの夫人にあやかろう。口角を上げ、背筋を伸ばした。
 約束の時間である。私は席を立った。