万年筆        
                山内 美恵子

 近年、デジタル化が進み、万年筆の出番がめっきり減った。何本もの万年筆が、机のなかで眠っている。文章等の執筆は、パソコンのキーボードをたたく。手紙その他は、腱鞘炎に見舞われて以来、筆を用いている。
 時々、万年筆にも出番を作ってやるべく、俳句の原稿だけは心して使用してきた。と言っても月一回に過ぎない。だが、このところ、それさえもおろそかにしている。
 万年筆は、長い間使用しないとインクが詰まり、書けなくなる。その都度、カートリッジインクを交換しなければならない。数句ばかりの句稿を書くのに、インクを取り換えるのも面倒で、つい手許にあるボールペンで済ましてしまう。
 そうかといって、捨てる気にはなれない。長い間、様々な恩恵を享受してきた、愛惜の品だからである。
 先日、探し物をしていたら、机の引き出しの万年筆に目が吸い寄せられた。思わず手に取った。いつも愛用していた、万年筆のカートリッジを交換。ブルーのインクが何とも清々しい。束の間キーボードでは得られない、万年筆独特の味わいを堪能した。

 少女の頃から、書くことに強い憧憬を抱いてきた。長ずるにつれて、牛歩ながらもその夢が叶い、原稿用紙のマス目を埋める作業が増す。しかし、ことばを紡ぐ作業は、憧憬していたのとは違って、とても神経を使う一筋縄では行かない作業であった。
 文才のない私は、今なお呻吟しながらことばを紡いでいる。孤独な作業でもある。おかげで精神が鍛えられ、辛抱強くなった。
 それは、四年目を迎えた夫の介護に大いに役立っている。苦吟すればするほど、紡ぎ終えたときの充実感が大きく、深い喜びで満たされる。それは、終わりの見えない介護も同じで、精神力があればこその賜物である。
 私が初めて万年筆を手にしたのは、高校生の時だった。入学して間もなく、次兄から臙脂(えんじ)色のモンブランの万年筆をもらった。
 ペン先が金色に光り輝き、いかにも重厚感が漂っていた。深みのある美しい臙脂色に魅了される。インクの色合いも快かった。私は胸を躍らせながら、飽くことなく眺めた。
 しかし、当時はモンブランの名前さえ知らなかった。後になって、何かの本で文壇の重鎮の先生方が愛用している、万年筆を知った。その時初めてオノトや、ペン先を発明したウォーターマン、モンブラン、パーカー、ペリカン等のブランド名を知ったのだった。
 私と九歳ほど齢の離れている次兄は、既に公務員として働いていた。子どもの私にその価値を話してもわからない、と思ったのか何も言わなかったような気がした。
 美しい万年筆を手にするたびに、大人になったような気がした。日ごとその万年筆で、原稿用紙のマス目を埋めてみたい、という思いがむくむくと頭をもたげた。
 三年生になるとその日が来た。校内の新聞が原稿を募集していたからだ。丁度修学旅行で京都、奈良に行ってきたばかりだった。はやる気持ちを抑えながら、紀行文まがえの作文を六枚ほどしたためた。
 運よく新聞に掲載された。名前はいつもローマ字の頭文字だった。他の人たちもそうしていたからだ。クラスの中に、私と同じ頭文字の男子生徒がおり、級友たちはその人が書いると思っていたようだ。掲載されても私は、いつも涼しい顔でいることができた。
 ところが、三クラス一同に集っての授業の折、国語担当で長身痩躯の教師が、教室に入るやいなや身を乗り出すようにして、
「新聞の修学旅行の文章は、誰が書いた」
 犯人探しのような険しい表情で資(ただ)した。教室は騒然となった。思いもかけぬ展開に、不安が胸をよぎった。間をおき、手を耳の高さまで上げた。心臓が激しく動悸していた。すると、初老の教師は、
「よく書けているね――」
 と、別人のようにお顔をほころばせた。私はあっけにとられ、強ばった身体が、一瞬にしてほぐれるのを感じた。
 それは、入魂の作品どころか、万年筆用いたさに観たままを、虚心に書いたにすぎなかった。少女だった私は、文章のイロハもよく知らなかったはずだ。評価が本当なら、万年筆が導いてくれたとしか言いようがない。
 私の拙文など、誰も歯牙にもかけないだろう、と思っていたら他のクラスの男子生徒から手紙が届き、私を驚かせた。彼は学年一の秀才だった。拙文をけなすものではなかったが、よほど無念だったにちがいない。
 卒業すると彼は進学せず社会人となった。女性のような端正な文字からは、繊細な神経が窺われた。長じて彼が自死したと人づてに聞いた。養家で育った彼は、進学も叶わず私たちには窺いしれない、深い苦悩があったのかもしれない。
 国語の教師の一言は、その後私の人生の励みとなった。万年筆は日ごと手に馴染み、私のかけがえのないものとなる。進学しても大事に使用した。教員の免許証を取得するため、母校の中学校で教育実習をした。ひびの実習を事細かに記録し、当日提出しなければならなかった。ある日の放課後記録していると、年輩の女教師がお見えになり、
「すてきな万年筆を持っているのね――」
 私の手元を覗きながらおっしゃった。
 万年筆は、誇らしい私の分身の如き存在であった。側にあるだけで心が安らいだ。社会人になっても、私の書く全てを支えてくれていた。しかし、ある日突然、ケースごと万年筆が消えてしまったのである。
 他にも四本の万年筆が入っていた。十年来愛用してきただけに、手がもぎ取られたような気がした。平穏な日常が壊れ、何もする気がおきなかった。人生の景色が変わり、しばらく寂寥感にとらわれる。
 不思議なことに、何所で無くしたのかさえも覚えていなかった。それは、結婚するため退職を余儀なくされた直後だった。出番が無くなることを恐れた万年筆たちは、早々と雲隠れしてしまったのだろうか……。
 そのことを、東京に住む婚約中の夫に寸書した。すぐにネームの入った、同じ色の万年筆が郷里に送られてきた。しかし、それまでの万年筆とは文字の太さも違い、馴染むまで時間がかかった。失ってみて初めて私は、その大切さを知ったのだった。
 その後は、モンブランをはじめ、パーカー、パイロット等、用途によって様々な万年筆を使用してきた。若い頃は、『丸善』の売り場に行くと、芸術品のような超高級な万年筆に見ほれ、目の正月をした。眺めているだけで、至福感に満たされた。今なお、そのくせが直らない。
 万年筆なしでは、私の人生はあり得なかったからである。次兄からもらった一本の万年筆が、書くことを導き現在につながっているからだ。あの臙脂色の万年筆こそ、私にとって高級品のオノトやウォーターマンにも勝る、価値ある万年筆であった、と六十年の歳月を経て気づいたのである。

 雨上がりの庭から、涼しげな虫の声が聞こえた。秋を迎えた虫たちのよろこびの声が、万年筆たちの歓喜のように感じられ、そっと胸に押しあてた。
 出番のなかった万年筆を、久方ぶりに思いやることが出来、胸のつかえがおりる。
 白い夕顔の花を一輪摘み、食卓に飾った。