随想  『明治の柩』を観て
              高橋 勝

 先日、文学座公演の『明治の柩』という舞台を観てきた。東池袋の「あうるすぽっと」で、6月11日から24日まで上演されていた。
 もう30年以上も前になる。私が文学座支持会員になっていたころ、信濃町のアトリエや三越劇場、紀伊國屋ホールなどによく通っていた。当時、杉村春子や大地喜和子などに代表される女優陣が舞台を華やかに主導し、北村和夫や三津田健などの男優陣が脇を盛り立てていたような印象を持っている。杉村の代表舞台である『女の一生』は幾度となく観ている。
 またあの頃は、勤務校で演劇部の顧問を受け持っていて、春秋の地区合同演劇祭に向けて駆け回ったり、関東地区の高校演劇祭に生徒を引率して他校の応援に行ったりしていた。何も知らずにひたすら動き回っていたのが良かったのかもしれない。感情に走った挙げ句の言動とその後の嫌悪感、時として見せてくれる生徒たちの笑顔と涙、一つ一つの場面が目の前に懐かしく蘇ってくる。
 今回は、そうした後の長期ブランクを経たうえでの観劇である。今ではベテランとして活躍している役者さんも何名か知っているが、大部入れ替わっている。若い俳優のヴァイタリティあふれる台詞のやり取りや動作、表情が生命感をあちこちにまき散らし、観ているものを巻き込んでいく。
 また、そこには文学座独特の、伝統的な雰囲気が息づいているのを感じる。それは何か、と言葉で説明するのは難しいが、敢えて言えば、文学性に基づいていて、そこから越脱しないと言えるのではないか。つまり、いかに生きるか、時代とその社会状況の中で人間いかに生きるべきかという重い課題を馬鹿の付くほどの真摯さで絶えず考えさせる演劇づくりをしているのである。そこが、面白くもあり惹きつけられるところである。今回も、私なりにそのようなことを考えさせられるテーマに出会うことができたと思う。
 題名の「柩(ひつぎ)」とは、辞書で確かめると「棺桶」の「棺」とも記すとあることから、既に過ぎ去った明治という時代と、その時代に生きた人々の群像とも取れるだろう。この演劇では、パンフレットに次のように記されている。
――「『明治の柩』は、足尾銅山の鉱毒被害に苦しむ谷中村の村民とその問題解決に命を捧げた田中正造を題材とした、重いテーマを抱えた作品である。この世界は様々な問題や紛争、打ち捨てられる人々を生み出し続けながら、それでも未来へと進む。大正、昭和、平成。柩はいくつも積み上げられた。芝居では抱えきれない重い現実。しかし芝居には芝居でしかできない表現がある。それに挑んだ宮本研の昭和の名作である。」
 足尾鉱毒事件についてネットで検索すると、概ね次のようなことが出ている。「19世紀後半の明治時代初期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた日本で初めてとなる足尾銅山での公害事件。原因企業は古河鉱業。国有林の無計画な伐採と銅山から発生する煙害(亜硫酸ガス)により山林の荒廃が進み、渡良瀬川の洪水を増大させ、鉱毒被害を沿岸の耕地と住民に及ぼした。渡良瀬川流域の農民を中心に、大規模な請願・反対運動が展開され、明治20年代から40年代にかけて大きな社会問題となった。栃木出身の衆議院議員田中正造は、国会での追及にあきたらず職を辞して天皇へ直訴したが、解決されないまま運動は弾圧され、後退した。日本の公害運動の原点といわれる。」
 田中正造については、上記のようにこの鉱毒問題に関して天皇直訴にまで及ぼうとしたとして教科書にも載っている。その略歴は省略するが、この鉱毒問題に批判弾劾運動に生涯をかけ、最後は旅の途次に草履姿で倒れたと言われている。
 なお、演出の高瀬久男氏は、本舞台開演の直前に病で亡くなっている。その高瀬氏が公演パンフレットに「独立をめざせ」と題して寄稿しているなかに次の一節があり、目を惹かれる。
――「日露戦争のためには、膨大な銅が必要。そんな中、大量生産できる銅山を守ることは何の特色もない小さな村を守るより当然価値があると考える。多少の犠牲は必要。後はそこに村は無かったことにしてしまえばいいということで遊水地に。様々な手段で人は人を追い詰める。田中正造はそんな中最後まで反対運動を戦い続ける。もう勝負はついている。それでも戦い続ける。何故?
 勝ち負けはない。負けてもいい。問題は正義を守り通すこと。正義はある。正義は存在し続けるという信念。そして、未来を描く。一大自治村を。自治村の確立を目指し、それらの集合体が、本当の民主主義を作り上げる、という未来像。死んでも残る。そう考えた。」
 ここからは、田中正造が鉱毒問題とそれにまつわる権力の横暴に対して生涯を賭して闘ったのは、己の信じる正義を守り通すことと、未来への飽くなき夢を捨てなかったことが支えになっていたと田中を含む住民側の立場を交えて述べているのが分かる。確かに舞台で繰り広げられる対話劇のなかで、旗中正造を演じる石田圭祐の台詞からは、そのような決して妥協しない意気込みを、社会主義者(幸徳秋水)やキリスト教信者(木下尚江)の言説の飛び交う中、村民を巻き込んでの四方八方からの入り組んだ猥雑さも加わって、ともすれば消し去られてしまいそうになりながらも、一縷の恥じらいを宿しながら懸命に伝えようとしていたのが微かに聞き取れたのを今にして覚えている。
 現実の田中正造の人物像というよりも、あくまで演劇に仕立て上げられた生き方をどうとらえるべきなのか、改めて自問しなくてはならないことに気付く。つまり、権力というものに対していかに向き合うかという課題である。
 権力の定義は、その視点の取り方によって様々に説明できるだろう。しかしここでは文脈上、他人を社会的、経済的、政治的に実力で強制させる力を持つものとして、被当該の人や社会が不本意な生活やあり方を余儀なくさせられるものと捉えておきたい。このように考えると、本芝居で提示された「権力」に対する向き合い方には、2つの方向性があるのに気付かされる。一つは、主人公旗中の、これまで見てきたどこまでも抵抗し続ける闘うあり方であり、もう一つは村民の生き方である。
 確かに旗中正造の生き方は、ある意味、社会にとって必要であり、暗闇を仄かに照らし続ける灯火として後世の人々に勇気を与え続けて行くのかもしれない。また、自らの正義感や理想像に、あるときは戸惑ったり、あるときは悩んだりしながらも、最後まで忠実に生き抜いたという意味でも、悔いの残らない人生を全うしたと言えるのかもしれない。
 しかし、その後、舞台の旗中村が遊水池の底に沈んでから、あるいは沈むことが決まってから、旗中は亡霊のように遊水池の葦の間から一人顔を出したり、付近をさ迷っていたりした挙げ句、路傍で倒れ息を引き取ったと語られる。この人生の終わり方をどうとらえるかは人それぞれであろうし、そうあるべきだろう。
 一方で、村の住民はその後どのような人生を選びとったのか。ある村民は、足尾銅山の鉱夫になったり、別の農民は家族とともに北海道の夕張炭鉱に移住して職を求めたりした。あるいは、遠近(おちこち)の地域に移住して身寄りを頼ったり、新たな仕事を探したり、それぞれの生き方を模索したものと考えられる。つまり、旗中正造以外はすべて、生きるために村を捨てたのである。
 ところで今、遊水池の敷地内に行くと、旧谷中村の史跡が保存されているのを目にすることができる。ところどころに盛り土された屋敷跡が見えるし、苔むし角の欠けた10個ほどの墓石群が木立の下に何くれとなく置かれているし、あるいは高台に神社跡も生々しく残っている。なかでも注目すべきは、毎年3月に葦焼きが遊水池一帯で行われるが、その後、新たな葦の芽が生え出してくる前に行ってみると、普段はまったく見えない田んぼの畦跡が連綿と続いているのが顔を出すことである。明らかに旧谷中村農民の耕作地であったのが分かる。
 こうした住民の取った行動を想像していると、今日の、地方における若者の都市部への人口流出現象と相通じるものがあることに気づく。
 地方から都市部に人口流出する現象は、戦後の経済復興、やがて東京オリンピックを境に高度経済成長路線に乗って、集団就職、出稼ぎと続くことに始まる。今日の若者が都市部に流出する社会的・経済的背景にはグローバリゼーションの進展が考えられるが、具体的には地方に仕事がないことや、あったとしても若者に魅力ある職種が乏しいことが挙げられよう。その結果、地方は益々疲弊し、過疎化が進み、空き家や放棄された田畑などが増え、限界集落といった状況まで出現している。こうした状況を長い目で改善していくには、地方の労働市場を活性化することである。そのためには、例えば,地方に伝わる技術を生かして、新たな産業を興すことが有力だと考えられるが、現状の改善をいきなり若者に期待することは無理というものだろう。
 しかし、若者の都市部への流出はやむを得ないことだと諸手を挙げて支持する訳ではないが、そこには現実に生きるための「したたかさ」があるような気がしてならない。つまり、旗中村の村民が、生きるために村を捨てて行ったように、そこにはしたたかな智恵と、地に足の付いた生命力が息づいていると思えてならないのである。
 正義感や夢を持ち続けることは、人間として、その存在を支える肝(きも)である。しかし、現実の社会の在りように関わりなく、また妥協することなく、自らの思いを一途に貫いて行動することが「道」に繋がると疑いようもなく言えるのだろうか。あるいは、たとえ不本意なものであっても、現実の動きに即応し、自らを柔軟に対応させながらより深い世界の認識を目指し、節を曲げず、自分の今置かれている状況の中でできることをできるだけやって生き抜く「道」を探るべきなのだろうか。ここには、大きな問題が投げかけられているような気がする。(了)