モ モ
              石川のり子


 五月一日にトイプードルのモモは、相模原(神奈川県)から甥の運転する車に乗せられてやってきた。
 離れて暮らしている犬好きの孫たちにも名前を募って、メスだということだけで「モモ」という名前をつけた。真っ黒で、姉の膝で丸くなっているのを見ると、どこが頭でどこが手足なのか全くわからない。縮れた毛が、編み直しのために解いた毛糸のかたまりのようで、私は手を伸ばして軽くタッチした。生後二か月半の子犬の毛は、柔らかな手触りで、手のひらに力をこめると、肌の温もりが伝わってきた。思いなしか震えている。
「だいじょうぶよ。すぐに馴れるからね」
 私はできるだけ優しく言ったつもりだったのに、姉はもっとやわらかな、私には聞かせたことのないような声で、
「お外に出たのも、車に乗ったのも初めてだったし、いつもきょうだいで遊んでいたから、不安で、怖いのよね」
 と、ふっくらした手で撫ぜている。二世帯住宅の長男宅で四匹産まれた犬の一匹を、世話してくれたのだけれど、いざ手放すとなると不憫なのだろう。
 私は姉から、丸まっているモモを受け取って膝に載せた。見た目は以前飼っていたトト(ヨークシャテリア)と同じくらいなのに、ずっと軽い。二キロぐらいだろう。モモは抱き心地が悪くなったせいか、「ヒー、ピー」と喉の奥からかすかな声を出した。まるで小鳥の鳴き声のようだ。
 夫が犬好きだったので、今までにシェパード犬や小型犬のヨークシャテリアを飼ったが、こんな小さな赤ちゃんを育てるのは初めてだ。ひ弱なモモを育てていくことができるだろうか?
 不安を口にすると、甥が、
「二,三日で馴れるからだいじょうぶ。それにナオ(奥さん)から扱い方をパソコンで打ってもらってあるから」
 と、飼い方の説明書を手渡してくれた。そこには、食事・注射・今の生活・注意点など細かく書いてある。さすが犬が大好きなナオさん、気配りも万全だ。甥とは同級生で、高校生の長男と中学生の長女のいるほがらかな女性だ。フルタイムで働いているのに、近くに住んでいる両親の買い物なども手伝っているとのこと。
「いい奥さんねえ」
 私がほめると、もうすぐ五十歳になる甥は相好を崩した。
「使っていた毛布は、みんなの匂いが染みついているから持ってきました」
 可愛いキティちゃん柄の毛布を、居間に用意したケージの前に広げてくれた。環境が変わっても餌や水が同じなら、体調は崩さないだろう。
「ここが新しいお家なのよ。よろしくね」
 私はモモに言い聞かせたが、腕の中にうずくまったまま、身動きもしない。姉は、
「赤ちゃんから育てるのは、手がかかってたいへんだけれど、強い絆で結ばれるから、トトちゃんのように逃げ出したりしないわ」
 と言う。トトは姉の友人からいただいた犬で、隙を見て家から飛び出すことも、外に出ると突然走り出す癖も、姉はよく知っていた。
 それは育った環境のせいなのだが、トトは二年半で三回も引越しをした。産まれは種子島(鹿児島県)で、飼い主の引っ越しでつくば市(茨城県)へ、その後、アメリカに転勤になった家族と離れて、世田谷の実家に預けられた。姉が職場の同僚だったこともあって、我が家(神奈川県)にもらわれてきた。利口で名前を呼ぶと、愛くるしい顔を向けて、すぐに寄ってきた。夫がいちばん好きで、家の中ではそばを離れなかった。
 それなのに、ドアを開けると、好物の餌を食べていても、夫に抱かれていても、玄関に走った。六年間もいっしょに暮したのに、引っ越しの段ボール箱を見ると、すっかり落ち着かなくなった。
 そして、茨城県に引っ越す三日前、とうとう玄関のドアの隙間から逃げ出した。すぐに後を追ったが、逃げ足が速く、見失った。ご近所や駅前の交番に事情を話し、写真と連絡先を書いて渡して探したが、見つからなかった。
 機敏なトトが車に轢かれることは考えられず、だれかに可愛がられて飼われているはずと、夫と話し合って納得した。六年が過ぎた今でも、まん丸の愛らしい目、シルバーグレーに耳のあたりに茶色の混じったきれいな毛並み、可愛いしぐさ、いろんな場面が浮かんでくる。

 モモは、少しずつ私の生活リズムに合わせてくれるようになった。五時半には起きて、新聞を読む時間と、テレビ体操の時間は、ケージの中でおとなしくしている。
 来たばかりのころは、私の姿が見えないと、すぐ鳴き始めた。顔を見せるまでは甲高い声をあげているので、ご近所に迷惑ではないかと、つい甘やかして抱いてばかりいた。
 まだ二回目の予防注射が済んでいないので、外には出せないが、五月十一日で三か月が過ぎた。早くいっしょに散歩がしたい。でもそれまでにしつけをしなければならない。まずは、トイレだ。わかってもわからなくても、「トイレはここよ」と、繰り返している。
 遊びたいと鳴くときは、「うるさいから鳴かないの、遊ぶのは用事が終わってからね」と、言い聞かせる。また、出かけるときは、「行ってきます。おとなしく留守番してね。バイバイ」と、ケージの中のモモに手を振る。どの程度理解しているのかわからないが、むやみに鳴かなくなった。
 私はときどきトトと混同して名前を間違えて呼んでいるが、呼ばれると、千切れんばかりに尾を振って喜んでいる。