長浜城址
          早藤貞二


 長浜は、姉川がつくった大三角州の鼻に発達した湖北随一の都市で、行政のうえでも、この地方の一大中心地となっている。私は産まれてから小学校を卒業するまで、湖北の長浜で育った。年がいくにつれ、幼い日のことをなつかしく思い出すことが多いが、湖に近い「豊公園」の城址も、その一つである。
 三月の初め、長浜で「文学の広場」という催しものがあった。催しそのものよりも、久しぶりに長浜に行ける、という喜びが私をつき動かした。風の冷たい日曜日であった。
 米原でバスに乗りかえた。車窓から伊吹山が見えた。その日の伊吹山は、山頂が雪でおおわれ、白く、明るく輝いていた。雪の伊吹山を見るのは何十年ぶりであったろうか。
 十五分ばかりで長浜駅に着いた。駅前の広場に、豊臣秀吉と少年石田三成の出会いをあらわした銅像が立っている。秀吉が伊吹山麓で鷹狩りの途中、山寺に立寄って茶を所望したところ、寺の小僧であった三成が、三度に分け、少しずつ、熱さや分量を変えて、茶を献じたという逸話によるものである。
 長浜は秀吉が開いた町である。三成は長浜の旧石田村に生まれた。秀吉に召しかかえられた三成は、一生を秀吉への恩義のために生き、殉じた武将である。
 駅を出ると、湖岸近くに、白壁の真新しい城が目に入った。つい最近、秀吉の遺徳をしのんで、長浜の市民が城址に建てた今様の城である。私の少年時代には、小高い天守閣あとに、何百年も経っていそうな、うっそうとした松の木が茂り、わずかに残った石垣と、城址を取り囲んだ古びた掘り割りが、昔の面影をしのばせていた。掘り割りには、擬宝珠のついた「本丸橋」がかかり、それを渡って城址へ入って行ったものである。
 掘り割りは埋めたてられ、舗装された広い道路になって、ひっきりなしに車が走っていた。城址の古びた物静かな感じが、なんだか薄れてしまって、近代的な城だけが売りものになっているような、そんなわびしさを覚えた。
 城址は、昔も今も、「豊公園」という名がついていて、桜の名所になっている。春になると、何千本という桜の木に、こぼれんばかりの花が咲く。ぼんぼりが飾られ、あちらの山にも、こちらの木の下にも、たくさんの花見客が群がり、たのしい宴がくりひろげられる。桜の花の間から、湖面が青く透いて見える景色はいいものだ。学校の図画の時間には、毎年きまって、桜見の絵を画いた。
 浜辺の方にまわってみた。昨年来の渇水の影響で、いつもは湖水につかって見えないはずの「太閤井戸」が、すっかりその石組みをあらわしていた。歩いて見に行くことさえできた。風が強く吹いていたので、琵琶湖の水も白く波立ち、寒々とした風景を見せていた。浜辺を歩いていると、春のボート、夏の水泳、万灯流し、冬のスキー(天守閣跡から浜辺へかけて、格好のスロープになっていた)と、四季おりおりの思い出がよみがえってくる。
 小さく見えた城も、そばへ寄ると、大きくて立派だった。もう二、三十年もすれば、まわりの樹木とも調和して、古色というものが感じられてくるのかもしれない。
 城の中は、市の歴史博物館になっていて、各階に、長浜の歴史にまつわるいろいろな資料が展示されてあった。秀吉、三成、浅井長政、小堀遠州らの肖像画がかけられ、数々の遺品や古文書が並んでいた。
 私の興味をひいたのは、長政と遠州のコーナーであった。戦国時代に湖北一帯を制した長政が、信長の妹お市を娶(めとり)り、やがてその信長と姉川の合戦で敗れ去った悲しいいきさつは、数々の小説に描かれているとおりである。
 その長政の家臣から、狩野山楽、海北友松、小堀遠州という、近世初頭の日本文化史を飾る大芸術家が生まれている。この事実は、私には大きな驚きであった。湖北の雪深い風土と、長政の城下町経営のあり様が、これらの芸術家を育んだのではなかろうか。京都の、数多い名刹や離宮に残されている彼らの作品を思いおこすと、幼少時を過ごした琵琶湖畔への郷愁といったようなものが感じられるのである。
 展望台に上った。足元から湖水がひろがり、竹生島や湖西の山々がかすんで見えた。反対側へまわると、雪をいただいた伊吹山が、長浜の町のひろがりの上に、ひときわ大きくうつった。
 博物館を出ると、私はその日の会場にあてられている市立図書館の方へ足を向けた。木立の間からも、古い格子造りの家や白壁の土蔵の間からも、伊吹山がよく見えた。