おばあちゃん
            羽田竹美


 今年の夏は猛暑であった。三月に東日本大震災が発生し、その後、原発事故があり、日本中が「がんばれ日本」を合言葉に被災地を応援していた。各地で節電が叫ばれ、暑さの中みんなが協力した。
 私もほどほどに節電して健康には気をつけていたのだが、八月の初めに何が原因だかわからない足首の痛みが急に出て、歩けなくなってしまった。一足歩くと、ズキンと痛む。杖にすがってそろりそろり痛みをこらえながら、一人住まいの不自由さで過ごしていた。
 暑さで頭から汗が流れ落ちる。それが目に入る。拭うたびにテレビの字が見えにくくなったり、蛍光灯の光が黄色く見えるようになった。毎年白内障が進んで視力が落ちていくように感じていた。これはそろそろ手術をしなければと決心して、八月半ばに予約したが、足首の痛みは治らない。この悶々とした状態の中で何故か、とうの昔に亡くなった母方の祖母である、私たちが「境(さかい)のおばあちゃん」と呼んでいた人のことが思い出されてならないのであった。
 おばあちゃんは腰が曲がって小さくなった体で、まるでかたつむりのようにのろのろと歩いていた。私は小学生のころ一緒に住んでいたので、おばあちゃんはなぜあんな歩き方しかできないのだろう、と思っていた。今、私がおばあちゃんの歩き方で歩いている。足が痛くなって初めて理解できたのである。そして、目もだんだん見えにくくなっておばあちゃんが暗いところでは見えなかったのだと気づかされた、ある出来事が私の頭を占領した。
 私が生まれ育った家は明治初期から続く旧家だが、代々男子が生まれなかった。父が三代目の養子である。母は実父の弟夫婦の家に生まれるとすぐもらわれてきてそこの娘として育てられた。
 私には三組の祖父母がいたのだが、記憶にあるのは母の実母、母の養父、父の実母の三人だけだった。
 養女になった娘の家に何故実母であるおばあちゃんがいるのか詳しいことはわからない。複雑な事情があったのだろう。けれど、私を可愛がってくれた祖父(母の養父)と境のおばあちゃんは戦後ずっと十一人家族として暮らしていた。
おばあちゃんが私たちと暮らし始めたのは戦争中群馬の山奥に疎開したときからであった。母は疎開してすぐ、悪阻(つわり)になりかなり辛い日を過ごしたと聞く。そんなとき、おばあちゃんに支えられ随分助けられたと、後になって母がしみじみと語っていた。育てることができなかった娘と心の交流があったのだろう。戦後七人もの孫がいる私の実家で母の手助けをしてくれたのである。
 おばあちゃんは昔日本橋で大きな店をしていた祖父に嫁いだが、保証人になったばかりに店と財産すべてを取られ、貧しくなってしまったという。そんなときに生まれた母を、財産家だが、子どもに恵まれない弟夫婦が養女としたのだった。
 おばあちゃんは苦労した人のようには見えず、いつも物静かで上品だった。曲がった腰を伸ばし伸ばし、食後の汚れた食器を洗っていた。母が語ったところによると、おばあちゃんはこの仕事ができるのをとても喜んでいたという。大所帯の食器を洗うことで、自分も役に立ってうれしいと言っていたという。年寄りは目が悪くなり洗い残しなどあるかもしれない。が、それだからといって取り上げてしまい、何もさせないことが果たして年寄りのためによいのか、と考えてしまう。おばあちゃんは忙しい娘をなんとか助けてやろうと一生懸命台所の仕事をしていたのだろう。母もおばあちゃんの気持ちを汲んでお願いしていたのではないかと思う。 
 私と姉は毎晩交代で夕食の後、おばあちゃんが洗った食器を布巾でふいて戸棚にしまう手伝いをしていた。十一人分の食器をおばあちゃんが一つ一つゆっくり洗う。私がそれを割らないように気をつけてふく。戸棚にきちんと片づけるのも神経を使った。
 ある日おばあちゃんが
「竹美ちゃんはほんとうに丁寧だねぇ」
 と、目を細めて褒めてくれた。私はうれしくなってますます丁寧にふいたものだった。
 おばあちゃんの話す言葉が私たちにとっては珍しかった。おばあちゃんがそれを使うと温かい風が吹きぬけていくようで心地よかった。例えば、トイレのことを「おこよば」。「すみません」を「すんません」と言った。おばあちゃん独特のゆったりと口から出る言葉を私たちは不思議な思いで愛情をこめて真似したりもしていた。
 おばあちゃんはそのころもう八十に近かったのかもしれない。
 これは弟が後になって話した出来事に私たち兄弟が仰天した話である。
 お昼ごはんの支度でおばあちゃんがお味噌汁を作っていた。そのころ猫が何匹かいて、トカゲや子ネズミを取ってきては廊下などで遊んでいた。誰かに見つけられるとたいがい外に追いとばされるのだが、その日は誰も気づかなかった。おばあちゃんがひょいと下を見ると、何か落ちている。煮干を落としたのかと思って箸でつまみ上げ、お鍋の中にポイと入れた。それを弟が見ていたのである。
「おばあちゃん、それトカゲだよ」
「おや、そうかい」
 おばあちゃんは少しも動ぜず、箸でトカゲをつまみ出すとゴミ箱に捨てたという。お味噌汁はそのまま食卓に出された。
 弟はそれを誰にも話さず、自分だけ食べなかった。それから何日かしておばあちゃんのいない間にみんなに話したとき、みんな「ゲー」と吐く真似をして大騒ぎだった。
 弟曰く。
「みんなおいしいおいしいって食べていたよ。トカゲのおだしが出ていたんじゃないの」
 みんなわあわあ言って笑いころげたが、おばあちゃんを責めたりはしなかった。
 この夏、私は眼鏡なしでは何にも見えなかった。特に、薄暗い台所にものを落としたときには何も見えないのである。
 あのとき、おばあちゃんもそうだったのだろう。目が見えないからトカゲと煮干を間違えたのだ。それにしてもすごいと思ったのは、そこで少しもあわてず、静かにトカゲを取り出して捨てたのである。弟が見ていたのにもかかわらず、それを何ごともなかったようにみんなに食べさせたところにおばあちゃんの大胆さがあった。あんなにやさしくて控えめなおばあちゃんのどこにそんな肝の据わった冷静さがあったのだろう。
 昔の女性は淑やかに、決して前に出てはいけないと躾けられたというが、ある意味に於いては、男性より強く逞しいのかもしれない。
 おばあちゃんは八十歳になると、母が引き止めるのも聞かず、長男の家に帰っていった。最後には長男のところで命を終えるものだという筋道を律儀に守ったのだろう。
 八月のある朝、伯母が様子を見にいくと、布団の中で冷たくなっていたという。こんなにもおばあちゃんの思い出が私を包んだこの夏、もしかしたら私の側(そば)にいてくれたのかもしれない。
        〇
 水引草に秋が立つと、私の目も足首もすっかりよくなった。